第一部『河童』

 ……。

 あの子が泣いている。

 たった一人の私の子。

 小さな手。柔らかい頬。

 そのどれにも触れる事なく、あの子は……。

 声が、遠ざかっていく。

 待って。

 連れて行かないで。

 ……。

 …………。

 今年の梅雨は長かった。太陽はその遅れを取り戻すかのように、ジリジリとした暑さが肌を刺す。自然が多くとも日差しは強く、虫でさえも熱中症になりかけている。山の木々はうっそうと生い茂り、鮮やかな緑が網膜に焼き付く。

 脳をかき乱すほどの蝉の輪唱の中、畦道(アゼミチ)に人影が二つ。

 一つは背が高く、眠たげな目つきをしている。暑さに押されているのかその背中はやや丸くなり、扇子を持つ手は柳のようにゆらゆらとうなだれていた。

 もう一つは小柄で、中高生と間違えそうなほどにあどけない。子犬のように男の周りを駆け回り、ふわふわとした髪をなびかせていた。

「あー緑!あー自然!夏ですねー!」

 背の高い男、アシヤはハンカチを取り出し額の汗をぬぐう。

 構わず小柄な少女……、に見える女性、カガリは溌溂(ハツラツ)と話し続ける。

「あ!川が見えますよ!大きいですねえ!レポートが終わったら泳ぎに行きましょーよ!」

 カガリを見るアシヤの目は、周りの気温が下がらんばかりに冷ややかだ。

「うーん!一体どんな感じなんでしょうかねー!かっ……」

「わかったから耳元で叫ぶのをやめろ!蝉よかうるせーんだよ!!」

 小鳥の群衆のような声をさえぎり、アシヤは叫んだ。

 カガリはいたって悪気はないのである。ぐったりしているアシヤを見かねて場を盛り上げようとした結果であった。

「あっ、すいません、聞こえてないのかと思って!」

「騒音公害甚だしいわ!着くまで大人しくしてろよ!」

「だってこの懐かしい感じ、すごくそわそわするんですよー!」

 カガリはそう言って深く息を吸い込む。

 植物の瑞々しい葉の香りと夏の太陽に灼かれる土の匂いが混ざり合う。冷ややかな目の男は目を逸らし、遠くの山を見つめる。

「……まあな。ここの景色はしきたりによって百年以上変わってないらしい」

「しきたり?やっぱりこの辺も(アヤカシ)が多いんですかね」

 まだ妖やその事情に詳しくないカガリはアシヤに問うた。

 (アヤカシ)

 人ならざるもの。肉体を持たず、魂のみで活動するもの。

 その姿はある程度霊力を持つ者にしか見えず、聞こえず、触れられない。

 しかし、確かにそこにいる。

 それは人ならざるもの。

 動物とも異なるもの。

 人智を超える力を持ち、この世に生けるものに少なからず影響を与える。

 国によっては(タモト)を分かち、争い合った歴史も残っている。だがここ日本では連綿と続く歴史の中、妖と人は共存していた。

 人は妖を畏れ、敬い、妖は人を守り、祟った。

 干渉するもしないも人間次第。ここ日本では、高層マンションの隣人のように、どこか余所余所(ヨソヨソ)しさを持ちながら、妖との距離を保っているのだ。

「お前は感じないだろうが、ここら一帯、結構いろんな霊気が混ざっているんだ。混沌としたこの辺の地域を、この村の神主らがうまいこと治めているらしい。それを外部の人間が不用意に荒らしなんかしたら……、わかるよな?」

「はい……。新しい“呪い”が生まれて、それを鎮めなければならなくなる。ですよね?」

「そういうこと。文字通り、『触らぬ神に祟りなし』ってことだ。お前もあんまり騒いでいると怒られるぞ、カミサマに」

 アシヤの言葉に、カガリはぎょっとして身を固くした。

 カガリには妖を見るほどの霊力はない。故に”呪い”というフレーズには人一倍過敏であった。

「す、すいません……!大人しくするから呪わないでください……!」

「ガキかよ……」

 一行は田舎道を進む。一軒の家屋を目指して。まだ日は上っている途中だ。

―――

 二週間前。陸陽大学カスミゼミにて。

 窓越しからでも、ジリジリと鳴くセミの音が聞こえる。冷房のひやりとした機械的な風がゼミ室を抜けていった。

 ゼミ室の教授、カスミは向けていた目をパソコンから机の脇にいるアシヤに変え、ゆっくりと体ごと椅子を回した。

「いいんじゃないか?納涼もかねて」

「いや、なんで僕があいつと一緒に行かなきゃいけないんですか」

 アシヤの顔は凶悪だった。もし何も知らない他人が通りすがったなら、カスミが狂犬に今にも喰われそうな光景として目に映っただろう。

 しかしカスミから見れば、狂犬たる彼は駄々をこねてふてくされる子供でしかなかった。

「二年は一人。三年と四年は二人ずつ。院生は君一人。ペアにするなら二年のカガリくんしかいないだろう」

 アシヤはカスミの机に勢いよく両手を置いた。ばんっ、と大きな音が鳴り、机上のメモ帳やペンが揺れる。

 今にもカスミに掴みかかりそうな勢いだが、やはり当の本人は涼しげな顔をしている。

「理解はできるが納得できませんね。そもそもなんで今年はペアで課外授業なんですか?こんなの初めてでしょ」

「うん、我々もこれからはどんどん新しい試みをしていかないとね。スケジュールもいい感じに噛み合ってるから、さ。いいだろう?」

「……なんでよりによってあの愚直脳筋と……!絶対なんかあるに決まってる……!」

 アシヤは下を向き、ぶつぶつと独り言を呟き始めた。

 その形相はさながら般若の様相だが、それでもカスミはどこ吹く風であった。

「まあ、拒否権はないはずだよ。アシヤくん。幻術学と妖怪生体学の出席、足りてないんだろ?」

「ぐ!」

 いつのまにかカスミのパソコンの画面にはアシヤの成績表が映し出されていた。

 出席日数ギリギリ、他の授業もぽろぽろと音を立てて落ちてしまいそうな散々たる成績である。

「今回のレポートの出来次第では処置を考えないこともないかな。院生が留年なんてそれこそ話にならないからね〜。学部生の頃みたいにはいかないと思いたまえよ、アシヤイオリくん?」

 カスミはにっこりとアシヤに微笑んだ。表情は初めから変わらない。しかし長年の付き合いであるアシヤから見れば、それは真っ黒な微笑みだ。

 人の弱みを知り尽くし、合理的かつ己の思う通りに動くよう他人を操る。それを自然にやってのけるのが、カスミという人間だった。

「……行きます……」

 他の人間には決して見せないであろう、完全なる敗北の表情。

 それが、アシヤがカガリと共に村に行く理由であった。

―――

 場面は現在に戻り。

 カガリたちは木造の大きな一軒家の前に立っていた。

 瓦屋根の趣深い外装だが汚れは少なく、最近建てられたものだと窺える。

 アシヤは玄関前に足を踏み入れ、黙って呼び鈴を鳴らす。

「はい

 マイクでこもっているが、琴のような凛とした声が、インターホンのスピーカーから鳴った。

「ごめんください。カスミ教授のご紹介で伺いました」

「はい、お待ちしておりました」

 その言葉と同時に扉が開く。

 中から現れたのは、着物の美人。

 (カンザシ)で髪を纏め、紫を基調にした装いは、大人の女性特有の色香を感じさせる。顔には微かにしわが刻まれているが、少し儚げな空気をたたえた、歳を重ねた分だけの妖しい魅力も纏っている。

 ただ一つ。

 夏も盛りというのに、首元は黒いタートルネックで覆われていた。

 二人は一瞬疑問に思ったが口にすることはなく、女性の挨拶に会釈をする。

「カスミ様からお話は伺っております。どうぞ中へ」

「失礼します!!」

 カガリの元気な発声にアシヤは思わず顔をしかめた。

「……失礼します」

 家の中は、現代的ながらも重厚感のある空気が漂っていた。建材には高級なものが使われているようで、床を踏みしめても軋む音すらしなかった。板張りのリビングに、手作りの味わいがある茶褐色のダイニングテーブルがちらりと見えた。

 二人は玄関からすぐ前の客間に通された。こちらは畳張りの和室のようだ。慇懃(インギン)な空気がカガリの背筋を伸ばす。

 奥方に促され、向かいの座椅子に隣同士で座った。

「陸陽大学の生徒さん、でしたよね?」

 女性は最初に尋ねた。相手への話はカスミ教授が通しているとのことだったが、二人と女性はお互い初対面だ。

「はい。カスミゼミで妖怪学を研究しております。院生の芦屋(アシヤ)伊織(イオリ)と申します」

「学部生二年の(カガリ)咲月(サツキ)です!」

 すかさずカガリは口を挟む。落ち着いた声で話すアシヤとはあまりにも対照的だ。

「はい。私は澄田(スミダ)真緒(マオ)と申します。短い間ですが、どうぞごゆっくり」

「ありがとうございます!」

 カガリの発声に合わせてアシヤがぺこりと頭を下げる。

「これから明日の御霊会について説明させていただきますので、こちらで少々お待ちください」

 そういうと、女性は茶を汲みに部屋を出た。

 女性の姿を見送ると、アシヤは正座していた脚を投げ出し、背もたれに寄りかかって一気に脱力した。先程の空気は嘘のようだ。

 無礼なその姿に、カガリはもちろん黙っていない。

「研究室じゃないんだからシャキッとしてくださいよ!さっきみたいに!」

「オンとオフの切り替えが大事なんだよ、愚直脳筋くん」

「脳筋じゃないですカガリです!いい加減名前覚えてくださいよおー」

 アシヤはカガリの名を読んだことがない。覚える気もないのだろう。呼ぶときはほとんど『脳筋』『お前』『愚直脳筋』である。ひどい言われようだが、カガリは訂正こそするもののそこまで気にしていないようだ。よってアシヤもそのままだ。

「しかし河童の御霊会(ゴリョウエ)とは。カスミさんらしいチョイスだな」

 いつのまにか、アシヤは今回の課外授業に関するレジュメを持ち、ひらひらと風に泳がせていた。それを見て、カガリも資料を取り出す。

 コピー用紙二、三枚分の文字の羅列。課題は至ってシンプルで、この村で行われる行事を実際に体験・調査し、レポートにまとめるというものだ。そしてこの村で催される行事というのが、『河童の御霊会』なるものであった。

「御霊会って、不慮の死を遂げた者の魂を鎮める儀式……ですよね。なぜに河童なんでしょう?」

「まあ、あまり見ない例ではあるがね。御霊会の目的は荒ぶる魂を鎮めることにある。その対象は人に限らず、魂を持つ者……妖や付喪神だってそうだ。呪い祟る者がいればこれを鎮める。それがこの村では……」

 言いかけて、アシヤはサッと姿勢を正す。

 同時に、障子越しに女性の影が現れた。

「河童……なのですよ」

 音もなく、奥方が部屋に入ってきた。

 アシヤのその場しのぎの態度に呆れながらも、カガリは話を合わせる。

「確かにここには大きくて綺麗な川がありますもんね。河童がいるというのも納得です。でも、ここに来るまで河童には会いませんでしたが……」

「……はい。この村の河童はすでに絶滅しております。御霊会ではその滅びた河童たちの魂を鎮めるのですよ。儀式は神主である主人、澄田流ノ介が行います。そして本番は二日後の朝になります。よろしくお願いしますね」

 奥方は今後の予定を簡単に説明していった。

 御霊会が行われる日以外は、基本的に自由行動のようだった。二人の研究資料と、時間が潰せるスポットも紹介してくれた。

 一通り説明が終わったところで、アシヤが口を開いた。

「わかりました。……ところで」

 アシヤは目だけを動かして周囲を見回すと、話を切り出した。

「僕たちを御霊会の二日前にお呼びした理由はなんでしょうか?式以外にも何かあるのでしょうか?」

 奥方は、一瞬口籠った。

「それは……。この村の人口が減ってきたこともあり、式を準備する人手が足りないのです。できれば、お力添えしていただきたく……」

「よし、力仕事といえば君の出番だな!」

「腕が鳴りますねえ!……でもその話は事前に教授がおっしゃってたじゃないですか?話聞いてなかったんですか?」

「無論聞いてたさ。……マオさん。貴方は僕たちに何か言いたいことがあるんじゃないですか?」

「え……」

「カスミさん曰く、課外授業の許可をくださったのはご主人だとか。しかし式の準備の手伝いを推してきたのはご主人ではなく貴方だそうですね。それに、カスミさんは去年まで毎年ここの御霊会を見てきたそうですが、式の準備自体は前日の夕方から始めても十分間に合うものだとも。なかなか不自然だな、と思いましてね」

「……そうですか……」

 アシヤは疑り深い。

 人の言動には必ず裏があるものだ、とかつて話していたことをカガリは思い出した。アシヤは口籠る奥方を見つめている。

「……二日も余日があるとなると、こいつが河原で遊び出しかねませんよ」

「え!?遊びませんよ!……レポートが終わるまでは!」

 その言葉を聞いた途端、奥方の顔から一気に血の気が引く。ひゅうと息を呑む音がした。

「……河原に近づくのは、おやめください!」

 アシヤは奥方の狼狽を見逃さない。

「……何かあるんですね?ご主人にも言えない何かが……」

 奥方は一瞬ハッとした表情をしたが、すぐに不安げな表情に変わった。アシヤの目には、奥方の迷いがはっきりと映っていた。

 “この人に話しても大丈夫だろうか…。”

 しかし同時に、不安と焦りも感じられた。

 話したいけど話せない。頼りたくても頼れない。

 何か事情があるのだろうか。

 しばらくして、奥方は呟くように言葉を発した。

「……カスミさんからお聞きしました。アシヤさんは学生にして腕利きの祓師(ハライシ)でもあると……」

 祓師。

 (ハライ)という名の妖術を操る者。

 妖と人との間を取り持つ者。

 祓の本質は『()』という言葉にある。

『詞』は妖と意思疎通することのできる唯一の言語術だ。

 これを用いれば、妖と対等に交渉・交流することができる。

 カスミは祓のプロフェッショナルであり、そのカスミに習っているアシヤもまた、相当な実力の持ち主だった。

 しかし、それを説明しようと声を発したのはアシヤではなく、カガリだった。

「そうなんです!アシヤさんはこれまで何件も妖にまつわる事件を解決してきたんですよ!祓のことならなんでも知ってて、カスミ先生も頼りにしてるほどなんですから!だから妖関係のことはアシヤさんに聞けばドーンと解決してくれますよ!あ、学生なのは四留してるからだと思います!」

 刹那、アシヤの肘がカガリの肩にめり込む。

「ぐっ!」

 カガリは滅多に出さない、アヒルを絞めたような声色で呻き、肩を押さえうずくまる。

 アシヤは天を仰ぎ、どこか諦めたような表情をしていた。

「……四留じゃない。三留だ。まあ……話だけなら聞いてもいいですよ。そんなに思い詰めた顔をしていては、何もなくても悪い気が寄ってきてしまう」

 奥方は押し黙り、やがて振り絞るように声を出した。

―――

「――最近。梅雨に入る前でしょうか。子供達の間で妙な噂が立っておりまして……。

 『河原で遊ぶと子供が一人増える』

 二人で行くと三人。三人で行くと四人。

 気づかぬうちに見知らぬ子が一人加わった状態で遊んでいるのだそうです。

 遊んでいる間はそのことに気づかず、皆その子がいるのが当たり前のように過ごしているのだそうです。

 しかし帰り際に数えると、元の人数に戻っている。そして、遊んでいたはずのもう一人の顔や名前は誰も思い出せない……。

 その話を聞いた主人は、

『河童の仕業だ。害はない様だが、用心に越したことはない。今年の御霊会は念入りにした方が良さそうだな』

と話していました。

 ”御霊会の日まで関係者以外は河原には近づかないように”

というお触れも出しました。

 私もその時は特に何も考えず、ちょっとした妖の悪戯程度に考えていたのですが……。

 その夜から、夢を見るようになりました。

 黒い影に、首を絞められる夢。

 それがなんなのかはわかりません。暗闇の中から腕のようなものが伸び、私の首を握り込むのです。

 もがき、苦しみ、やっとのことで目覚めると、夜明け前の暗い空が見えます。午前四時頃でしょうか。全身は汗だくになっていました。

 初めは妙な噂を聞いたせいだと、あまり気にしていませんでした。

 しかし、その夢は毎晩続くのです。

 そしてその影は夜ごと強く、大きく……。

 夢であるはずなのに、目覚めるまで息をしていないようでした。

 気のせいだと思いたかった。

 変な噂を聞いたから、無意識にあらぬ妄想をして夢に出てきているんだ。

 そう思いたかった。しかし。

 貴方がたがこの村に来る日程調整をしていた頃には……」

 奥方はするりとハイネックの襟元をずらし、首元を見せた。

 その光景に、二人は言葉を失う。

「!」

 奥方の、白い陶器のような首筋。

 その白に浮かぶ、暗雲の如き鬱血痕。

 首元に、手のような跡がくっきりとついていた。

 ただでさえ不自然な光景。しかしそこにはさらに奇妙な特徴がある。

 数が少ない。

 細縄のような指の痕は、片側にそれぞれ三本ずつ首筋に染められていた。これが人間の仕業ならば、五本ずつ痕が付くはずだ。

 これがなにを意味するのか……。

 ぐるぐると巡る彼らの思考を遮るように、奥方の重い口が開く。

「これは、貴方がたを一介の祓師と見てお願いがあります。主人にもどうか、内密にお願いします。」

黙り込む二人を見つめる瞳は、暗く淀んでいる。

 ――私に巣食う『何か』の正体を教えてください……――

―――

 その後、奥方はこの二日間宿泊する部屋を案内してくれた。アシヤは客室で、カガリは奥方と同室で寝ることになった。そして奥方は昼食の準備のため、挨拶をして去っていった。

 客室に残された二人は、しばらく沈黙を保っていたが、数分してカガリが耐えきれず口を開いた。

「……どうかしたんですか、アシヤさん?」

「どうしたもこうしたもないだろう!カスミさんめ、やっぱりこうなることを見越して僕らに仕事を押し付けたんだ!課外授業にかこつけて!露骨に怪しすぎると思ったよ!何が納涼だ!外はすこぶる暑いし!」

 アシヤは苦虫を噛み潰したような顔で恨み言を吐き散らした。

 カガリはその姿をもう何度となく見ているため、火に油を注ぐことになると知りながら、いつものように宥めた。

「まあまあ、蜘蛛の糸にかかったのはアシヤさんじゃないですかぁ。それに、放っておけませんよこんなこと!なんせ人の命がかかってるんですから!」

「この善意の塊もついてきたのが厄介だ! 話がややこしくなる!」

「誰が善意の塊ですか!テレるじゃないですか!」

「単細胞花畑とでも言い換えてやろうか?このお人好しが!二つ返事で了解しやがって!仕事すんのは僕なんだからな!」

「もちろんお手伝いしますよ!それに、目の前で困ってる人がいたら助けるのが私の信条ですからね!アシヤさんがやらないと言っても私がやります!」

 カガリはアシヤの機嫌に臆することなく胸を張る。アシヤはそれを見てますます人相が凶悪になっていく。

「その信条とやらに他人を巻き込むのはいい加減やめてもらいたいがね!いいから余計なことはするなよ!お前に仕事させたら山一つ吹き飛びかねんからな!」

 アシヤはそう吐き捨て自分の身支度を始めた。

 カガリは今年の春から祓の術を学び始めたばかりだ。

 一朝一夕で身につく術ではないとはいえ、その迷走っぷりはカスミもこめかみを押さえるレベルだった。

 狙ったところに当たらない、詞の読み方を間違える、そもそも詞が読めない。

 大学屋外にて、祓を使って紙飛行機の軌道を変えるという実践授業をしたときには、軌道を大いに逸らし、遥か遠くで歩いていた教育学部長のカツラを勢いよく吹き飛ばした。

 アシヤはその光景の始終を見て抱腹絶倒の大笑い、そして学部長の怒りを買い単位を一つ落とした。

 ……そんなわけで、カガリは校外での祓の使用は非常に限られている。アシヤもカガリの技術に関しては全く信用していない。

 しかし、アシヤを苛立たせる原因はもっと別のところにある。

「……再三言ってるがな、恨みも恩も同じ『(ゴウ)』だ。奥さんの頼みを聞いてやったとして、何も起こらないとは限らないんだからな」

 業。

 人と人、人と妖が干渉し合った際に生まれるもの。

 自業自得、因果応報、自縄自縛。

 自らの行いは必ずなんらかの形で返ってくるものだ。

 それは徳であり、罪である。

 助けた者が殺人鬼だとしたら、それは善か。

 不治の病に喘ぎ苦しむ者を介錯するとしたら、それは悪か。

 それを決めるのは、人ではない。

 全ては業のなすがまま。

 人を裁く術が法ならば、この世に生きる全ての存在全てを裁くのは業である。

 ……それが、今までの経験から得たアシヤの考えだった。

「……いたずらに人の頼みなんか聞くもんじゃない。その結果起こることに僕たちは責任なんか持てないんだ。だから僕は……」

 カガリはアシヤの背中を見た。背丈は比較的高いにもかかわらずその背中は丸く、本来より一回り小さく見えた。

 年齢。性別。家族構成。経歴。

 それらが積み重なって構築される価値観。

 アシヤとカガリは、その全てが正反対と言っていいほどに異なっている。

 故に彼らはしばしば衝突する。

 どれだけ想いを伝えても、どれだけ意見を重ねても、お互いが歩み寄ることができないほどに、溝は深かった。

 共感されたいわけでも、同情されたいわけでもない。

 ただお互いがそうであることを認められないのだ。

 認めてしまえば、己が積み重ねてきた全てが崩れてしまうから。

 ……それでも。

 この溝から逃げてはならない。

 そう、カガリは思うのだ。

「……だから、『なるべく他人の人生に関わりたくない』ですよね?」

 カガリはアシヤの背中に一歩近づく。

「大丈夫ですよ。それでも良いことをすれば良いこととして、悪いことをすれば悪いこととして返ってくることには変わりありません」

『人事を尽くして天命を待つ』

 カガリの座右の銘だ。

 どんなに辛いことがこれから起きるとしても、行動せずに後悔するより行動して後悔したい。

 カガリは、未来の結果よりも、目の前にいる者の心を信じていたいのだ。

「……それに、アシヤさんは敏腕祓師ですしね!自分の選択を信じましょうよ!『信じる者は救われる』ですよ!……私、真緒さんを手伝ってきます!」

 カガリはぱたぱたと廊下を走っていった。

 アシヤはそれを横目で見やる。

 カガリの背中は夏の日差しに照らされ、目が霞むほど白く見えた。

 背中を丸めた男は自分の手に目を落とす。

 日向に目が眩んだのか、陰の中にある手はどす黒く汚れているように見えた。

 男は誰に語りかけるでもなく呟く。

「他人にとっての幸不幸も、僕たちが推し量ることはできない。それこそ……

『死が救い』になったりしてな」

―――

 奥方の作った昼食は、簡素ながらも質が良く、品の良い味だった。カガリと奥方は先ほどの話など嘘のように、会話に花開かせていた。それは心配させまいとする、カガリの気遣いでもあった。

 しかしアシヤは会話にほとんど加わることなく、黙々と食事を進めていた。カガリが茶碗についた最後の米粒を口に運んだとき、アシヤはぽつりと呟いた。

「では、レポートの資料収集に行ってきます。村の地図はありますか?」

 奥方は「はい、こちらに」となんの疑いもなく答えたが、カガリはわかっていた。

 アシヤは基本、自分の行動を相手に明かす性格ではないことを。

 そして、アシヤが生真面目に課題をやる人間ではないことを。

 地図をもらいに席を立ったアシヤは、近くにあったチラシに目を止めた。

「……これも一枚貰ってもいいですか?」

「え?ああ、いいですよ。このイベントも、けっこう盛り上がるんですよ。御霊会とは関係ないですけど……」

「いえ、ありがとうございます。では行ってきます」

 アシヤが一人で外に出ようとするのを見て、カガリは慌てて席を立った。

「あ、私も行ってきます!えと、レポート書きに!」

「はい、行ってらっしゃいませ」

 奥方は二人の姿を微笑んで見送った。

―――

 澄田家の門前。

 日は高く、湿り気を帯びた熱気が体をつきまとう。

 二人は滲む汗を拭きながら門の外へと踏み出した。

 アシヤは釈然としない顔でカガリの方をちらと見る。

「……君はついてこなくてもよかったんだがね」

「何言ってんですか!これも課外授業の一環ですよ!」

「物は言いようだなあ」

「またまたー!隠さなくたってわかりますよ!真緒さんの異変について調べるんでしょ?どこから調べるんですかっ?」

 そわつくカガリをあしらいながら、アシヤは腕を組み、黙っていた。先程の奥方の話を思い返しているようだ。

「……マオさんに異変が起きたきっかけは『河原で遊ぶと人が一人増える』という噂を聞いてから。それに『河原』の話をした時の奥さんのあの反応……。調べないわけにはいかないな」

「河原に行くんですか?でも関係者以外立ち入り禁止って……」

「なればいいじゃないか。関係者に」

「えぇ?」

「あんだけでかい川だ、おそらく管理人がいるだろう。それに……」

 アシヤは先程手に入れたチラシを横目で見た。

 カガリが覗こうとしたが、同じタイミングで鞄にしまわれてしまった。

「……まぁ、そいつと話をつければ、河原を調べることができる」

「なるほど、全うですね。アシヤさんのことだから、こっそり忍び込むのかと思っちゃいましたよ!」

「何言ってんだ、人聞きの悪い。神主がいる地のテリトリーは、下手に荒らすことはできない。『郷に入れば郷に従え』ってやつだ」

 そう言い終わらないうちに、アシヤはすたすたと歩き出した。

「へえー。あ、待ってくださいよー!」

―――

 河原の水は、遠目でわかるほど澄んでおり、夏の日差しをキラキラと反射しながら流れていた。

「わあー!綺麗!魚釣りしたくなりますねえ!」

「いるぞ、そこに。魚」

 アシヤは遠くを指差した。

「え!どこどこ?」

 カガリがアシヤの指差す方向に向かって近づくと……。

 バチィッ!

 青白い閃光が一瞬放たれ、カガリは思わず尻餅をついた。

「いたぁーっ!なんですかこれ!」

「ふむ、ここまでが立ち入り禁止か。やはり軽い結界も張ってあるな」

「ひどい!私を実験台にしないでくださいよ!」

「たいしたことないだろ、これぐらい。子供がふざけて入ろうとしても大丈夫な安心設計だ。

 さて、管理人は……」

 アシヤが辺りを見回す。小屋が一軒ある以外、特に気になるものはない。

 ……よく見ると、小屋の中から一人、老人が出てきた。

「……」

「こんにちは!」

「……」

 老人はこちらをちらりと見やり、アシヤたちとは反対方向に歩き出した。

「あれ、どっか行っちゃった……」

「ガードが固い爺さんだな。よし、お前。あのご老体を投げてこい」

 一瞬の沈黙。それは速攻で破られる。

「えぇ!?何血迷ったこと言ってんですか!」

「簡単だろう。お前なら」

「そういう問題じゃないですよ!嫌ですよ完全にやばい人になっちゃうじゃないですか!」

「大丈夫だって。なんとかなるって。純真無垢なこの僕の言うことを信じなさい」

 そう言ってアシヤはとんと自身の胸板を拳で軽く叩いた。

「あからさまに心にもないことを……!嫌です!どうせまた痛い目に合うんでしょ!」

 断固拒否の姿勢を取るカガリを見て、アシヤは大仰な動作で両手を上げ、やれやれと息をついた。

「……全く、しょうがないなあ。そんなお前に魔法の呪文を唱えてやろう」

 そう言うと、二人の周りを静けさが包んだ。

 カガリは何か言われるのかと身構える。しかし何も起こらない。

 五秒ほど経ってからアシヤを見ると、彼は黙っているのではなく、息を吸い込んでいると言うことに気がついた。

 そして。

「たのもーーーー!!!!!」

 村中に響き渡らんとする大声。

 蝉は鳴くのを止め、木々に止まっていた鳥達がバサバサと飛び立つ音が聞こえた。

 山彦が反響し、それが止むまでカガリの耳鳴りは治まらなかった。

「……び、びっくりしたぁ……。アシヤさんなんの脈絡もなくこういうことするの今度からなしにしましょうよ〜。……ん?」

 ふと見ると、先ほどの老人が走って来ている。

 砂煙を上げんばかりの凄まじい勢いだ。

 その目は完全にアシヤ達を捕らえていた。

「わわわ……!」

 向かって来た老人を、アシヤは紙一重でひらりとかわす。

 老人は勢いを殺さぬまま、即座に標的をカガリに変えて向かってくる。

「う、ぅわぁぁぁーっ!!」

 カガリの恐怖の叫びが、一面の緑にこだました。

―――

 一瞬の出来事だった。

 石尽くめの床に倒れている人間が一人。突っ伏しているため、アシヤたちの目から表情を読み取ることはできない。

 アシヤ以外、今現在の状況を理解している者はいなかった。

「……なんで?」

 そう呟き、倒れている人間を見下ろしたのは、カガリ。

 そう、倒されたのは老人だった。

 数十秒前。

 老人がカガリに掴みかかろうとした刹那。

 カガリは老人のウィークポイントを即座に見抜き、流れるような早技で巴投げを繰り出したのだ。

 投げ技はカガリの得意技。まっすぐ向かってくる相手に負けることはまずないのだった。

「一体何が起きたんですか?説明してくださいアシヤさん!」

 アシヤは現状がさも当たり前のように、涼しげな顔をして立っている。

「……河童は相撲が好きなんだ。『頼もう』と叫ばれたら応じずにはいられないのさ」

「はぁ……?」

「ここにかつて河童がいたのなら、相撲の文化も根付いているはずだ。朝、澄田家にちびっこ相撲大会のポスターが置いてあった。子供らに配るためだろう。今年で百六十五回か……すごいな。今でこそ人が減ってその文化は薄れているかもわからんが、年配の方なら大体通じるはずだ」

「……つまり、ここには河童と相撲の文化があるから、勝負を挑めば向こうから来てくれると思った……ってことですか?!ほんとに突拍子がないですね!」

「突拍子?なきにしもあらずさ。見ろ、この人は相撲大会の運営者だぞ?血の気が多いに決まってる。ほら、ここに顔写真が載ってるだろ」

 見ると、チラシにはコメントと共に顔写真が載っていた。

 運営者から一言

 相撲とは、魂と魂のぶつかり合いです。大事なのは絶対に負けない心です。特訓ならいつでもつきあうからな!

 ××川管理人 道長雄三

「うぅ……」

 老人がゆっくりと起き上がった。その顔は、チラシの顔写真と同じだった。

 それを見てカガリはハッとして老人に駆け寄る。

「すみません!大丈夫ですか!?」

「……いやあ、あまりの威勢のいい声に思わず飛んできたが……まさかこんな小さなおなごに投げられるとは。わしも老いぼれたなあ……」

「……」

 カガリは不服そうな目でアシヤを見つめた。

 言いたいことは山ほどあるが、それを一つ一つ聞いて説明してくれるようなアシヤではないだろう。それでもカガリは言わずにはいられなかった。

「こんなのアリなんですか……!?そりゃ私もすごい勢いで掴みかかられたからつい投げちゃったけど……!」

 アシヤは老人……もとい管理人の腕を掴み、ひょいと引っ張り上げた。

「まあ、そんな目で見るな。これで河原には入れるようになったからさ」

「……え?そうなんですか?」

 立ち上がった老人は、足元を払いながらもニコニコしている。

「ああ。こうも力の差を見せつけられてしまってはなあ!」

「縁を結んでしまえばこっちのもんさ。めでたく僕たちはここの関係者となったわけだ」

「……どういうことですか……?」

「それはさっきの場所を通ればわかる」

 アシヤがするりとカガリの前を抜け、先程閃光が走った場所を通る。カガリはつい一瞬身を固める。

 ……だが、何も起こらなかった。

「……なんともない?」

「さっきお前がぶち当たったときに結界の種類は見当がついた。『関係者以外立ち入り禁止』という言霊を利用して、管理人が部外者との関わりを断つことで結界を張っていた。だからガードの緩そうな“関係者”と縁を結べば、“関係者”の“関係者”となり、入れるようになるってわけだ」

「ここら一帯は結構広いからな。結界を破られないようにするには、どうしても一人番をする奴が必要だった。わしはもう身寄りもいないから、適任だったわけだ。御霊会までは結界を破られないように、誰とも口を聞かないよう言われていたんだ。それでもいたずら坊主や、他所の学生たちがわしにちょっかいをかけてくることもある。黙って片っ端からぶん投げてやったら、すぐに逃げていったがな。

 ……しかしまさか、わしが投げられるとは!相撲じゃ負けなしだったのになあ!世の中は広いなあ!わはは!」

 管理人が笑いながらアシヤの言葉に補足を加えた。カガリがあまりに何も理解できてないという表情をしていたからだろう。

 ようやく、無理やり状況を呑み込んだカガリは、ハッとした。

「……神主さん!神主さんだって関係者ですよ!結界を張ったのも神主さんでしょう?お話すれば通してくれたんじゃないんですか?」

「どうだかね〜。今日村に来てから一度も顔を見ていない。奥さんは準備に出かけてるって言ってたけど、当日まで会えないだろう。神聖な儀式に、穢れはご法度だからな。……さて、中を調べるか……」

「……アシヤさん!」

「なんだよ」

 アシヤはのっそり振り返った。この人間と出会って数ヶ月。様々な出来事を通して、彼がどのような人間なのか理解しつつあると、カガリは思っていた。それでもいまだに、彼の言動の意図がわからなくなることは多い。

「もっとこう……穏便なやり方ではなんとかならなかったのでしょうか?なんだかこれってすごく強引だと思うんですけど……」

「……」

 アシヤは斜め下に目をやり、少し考えているようだった。カガリはその顔から彼が何を思っているのか推し量ることはできなかった。

「……妖のいる世界に人間の常識は通用しない。一年の授業で口酸っぱく言われなかったか?君は”そっちの世界”にとっくに足を踏み入れてるんだ。もっと自覚を持った方がいい」

 アシヤはスッと河原の方へ歩いて行った。砂利道だというのに、足音はしなかった。

 カガリは離れていく距離に、アシヤの心に隔てられた厚い壁を感じながら、ぼんやりと呟く。

「……やっぱりこんな感じになるのかあ……」

―――

 河原は広く、流れている川も向こう岸に渡るには少し深かった。ただ、建物もなく開けているため少し見回せば何があるかはすぐにわかった。しかし……。

「……見た感じ、変わったところはないですね」

「ああ。だが……」

「?」

「慰霊碑がないな。地図によると河原付近にあるはずだが」

「ここは中流ですから、もっと上流か、下流の方にあるのかもしれませんね!」

「ふむ。どちらから探すか……」

「上流から行きましょう!記念碑って大体山の上にあるイメージですし!」

「記念碑じゃなくて慰霊碑な。まあ可能性はなくはないな。だが山の上……か」

 アシヤは面倒くさそうにカガリを見る。賛成したのは彼だというのに。

「何こっち見てんですか!登りたくなくても我慢してくださいよ!

 私じゃ妖がいるかどうかもわかんないんですから……」

「……ちっ」

「ほらほら行きますよー!なんならおぶって行きましょうか?」

「却下。誰がお前の手なんか借りるか。ったく……」

 アシヤとカガリは川沿いに山を登っていく。想像していたより勾配はなだらかで、スムーズに登っていくことができた。

―――

 上流付近にて。

 川の水はより澄み、小魚が群れをなして泳いでいるのを視認できるほどだった。

 遠くには勢いよく音を立てて水を打つ滝が見える。その途中、探し物は見つかった。

「……祠はこれだな」

 簡易的ながらもきちんと供えられた腰ほどの丈のある石碑と、そこに繋がる木造の門があった。石碑は地面に接している箇所は苔むしており、経年変化により土のように色褪せていた。しかし手入れされているのか、目立つ汚れはなかった。

「いろいろお供えしてありますねー!」

「きゅうりに鮎、スイカに桃……か。好物は通俗的な河童と変わらないみたいだな」

「河童が祟るなんて、不思議な話ですよね。村の人だったら昔のお話も聞かせてくれるかも……。……アシヤさん?」

 祠の門の前に立ったアシヤは、顔から血の気が引き、険しい表情をしていた。

「……神主は、このような状態で何も感じなかったのか?」

「どうかしたんですか?顔真っ青ですよ……?」

 アシヤは素早くカガリの前に腕を出した。

「下がれ。門に入ると当てられるぞ」

 カガリの顔も蒼ざめる。

「ひょっとして……いるんですか?河童の幽霊……」

「ああ。しかもかなりご乱心のようだ。誰だよ……こんな所にのこのこと供え物をしたやつは……。うっ!」

 アシヤは手で口を覆った。

 気分が悪くなるほどの瘴気らしい。

「とりあえず離れましょう!よくわかんないけど嫌な予感がします……!」

 そのとき、凄まじい勢いで小さな“何か”が飛んできた。

 方向は、アシヤを向いている。

「危ない!」

 カガリはとっさに手を出し、それを受け止めた。

「!」

「いた……っ!」

 受け止めた手を開くと、尖った石だった。

 途端手の平から血が流れ出し、河原の石に点々と赤が付いた。

「……降りるぞ。どうやら奥さんの言っていたことは間違いじゃあなさそうだ」

―――

 川を降りると、管理人がいた。

 管理人には川の石の中に割れたガラスが混じっていて、それを触って切ってしまった、と伝えた。

 そのまま伝えれば騒ぎが大きくなってしまい、調査が進まなくなることを恐れての行動だった。小屋にあった救急箱で手当てをしていると、管理人が口を開いた。

「……災難だったな。最近は河原の手入れもままならんから、何処かから流れてきたガラスもそのままになっとるんだろう。あとで探して回収しておくよ」

「……ここって、やっぱり、出るんですか?」

「ああ、あんたらも子供の噂を聞いたのか。所詮噂は噂だ。子供の悪戯だと思っているよ。しかし、それで御霊会が妨害されてしまってはかなわんからな。こうして番をしているというわけだ」

「大事な行事なんですね……」

「ああ。幽霊とか呪いとか、そういう話は詳しくないんだが、御霊会は別だ。ワシが子供のころに死人が出たからな」

「し、死人?」

 管理人はしまったという顔をした。久々に人と会話したからか、不要なことまで喋ってしまったと思ったようだ。

 しかし口に出してしまった手前、そこには話の続きを知りたがっている二人がいる。

 管理人は恐る恐る話し始めた。

「普通の死者なら単なる偶然だと思ったんだがな。

 原因が河童の仕業としか思えなかったんだよ。しかも数が多かった。

 七人だ。七人、同じ死に方をした。

 御霊会当日、そいつらがいないことに気づいた村の奴らが、探しにいったんだそうだ。七人の中には、神主関係の人間もいたからな。

 そいつらはすぐに見つかったよ。相当目立つ所にいたからな。

 誰も行けやしない上流の木の枝に、そいつらはぶら下がっていた。

 俺は親にすぐ目を隠されたのと、逆光とで人っぽい影としか認識できなかったが、あの光景は忘れやしない。

 滝を背後に七つの大きな影が、蓑虫みたいにゆらゆらと揺れてんだ。

 気味悪かったなあ…。

 無論、村は大騒ぎでさ。御霊会どころじゃなかったんだけど、御霊会をしなけりゃもっとひどくなると踏んだ当時の神主…流ノ介の父さんが、特別な儀式をしたらしい。それでその年はなんとか収まったらしく、来年以降も被害は出なかった。

 おっかなくて、それ以降俺は御霊会だけは毎年ちゃんとやろうって決めてんだ」

「……」

 凍りつくカガリを尻目に、ずっと黙っていたアシヤが口を開いた。

「……因みに、死因はなんだったんですか?」

「ああ……窒息死さ。絞殺ってやつかねえ……」

「こ、絞殺!?」

 カガリは思わず立ち上がろうとした。

 アシヤはそのカガリの肩に手刀を喰らわせ、無理矢理座らせた。

「あ、ああ……。全員、首元に長い指のような鬱血した跡が六本付いてたんだと。変だよな、六本って。人の指なら十本だろうに。やっぱりあれは河童だったのかなあ……」

「……その年、何があったんですか?」

「……確か。御霊会の一週間ほど前だったか。あの川に、子供が流されたんだ。まだよちよち歩きの赤子が。当時は雨も降っていて流れも早く、遺体が見つかったのは御霊会の三日後だった。赤子の母親は、気が抜けたように呆然としていたが、その後御霊会の日に七人の仲間入りをしちまった。赤子が河童を呼んだんだって、村の奴らは言っていた。しかしなぜ、七人も亡くなったのかは分からずじまいだった。死人に口無しだから、な」

 二人は顔を見合わせた。

 奥方の状況とよく似た死者。河童の祟り。赤子の死。何か関係があるのだろうか。

「……お話しいただき、ありがとうございました。そろそろ、スミダさんのお宅に戻ります」

 そう言って、アシヤは立ち上がった。知りたいことは全て把握したかのように。

「そうだ!あんたら、御霊会について調べてんだろ?なら役場に行くといい。昔の資料はそっちで保管されてるはずだ」

「!……助かります」

「なあに。こんなへんぴな村にわざわざ研究に来るやつなんか滅多にいないからな。色々見せてくれるだろうよ。嬢ちゃん、次は負けんからな!」

「はっ、はい!望むところです!」

 帰りながら、カガリは管理人が見えなくなるまでペコペコとお辞儀していた。

 アシヤは考え事をしているようだった。カガリが話を振っても生返事ばかりで、何も話そうとはしなかった。

「さっきの話をレポートに書くのは良くないよね……」

 カガリはそんなことをぼんやりと考えた。ズキリと、手のひらの傷が痛んだ。

 河童はまた、同じことを繰り返そうとしているのだろうか。奥方の身に何があったのだろうか。この村で、何が起ころうとしているのだろうか。

 橙色に染まりゆく空と刺すような西陽が、様々な思惑が渦巻く小さな村を見下ろしていた。

―――

 澄田家に戻ると、奥方は快く出迎えてくれた。

 しかし同時に、カガリの手の傷を見た途端、持っていたお盆を取り落としてしまった。その顔はひどく狼狽している。

「カガリさん!その傷……!あの川に行ったんですか!?」

「へ!え、えっと……」

「調査のために管理人から許可を得て立ち入りました。そこでこいつが遊んで川の中に混じってたガラスで切ったんですよ」

「そ、そうなんですね……」

 嘘がつけないカガリの代わりにアシヤがうまく誤魔化すと、奥方はなんとか納得してくれたようだった。それでも不安の表情は消えない。

「やっぱり、あの川に何かあるのでしょうか……?」

「……小さな不幸が重なると、嫌でも悪い方向に考えてしまうものです」

「大丈夫、自分たちの身は自分で守れます。だから奥さんも気をしっかり持ちましょう、ね!」

 カガリはうろたえる奥方の肩を優しく叩いた。

 奥方はまだ不安げな表情をしていたが、黙って頷いた。

 数分後各々の部屋に戻り、カガリが荷物の整理をしていると、背中にコツンと何かが飛んできた。

「いて。……アシヤさん?」

 アシヤは部屋に入らず、障子にもたれかかっている。

「それを今日は一晩中持っておけ。盛り塩も忘れるなよ」

 背中に投げられたらしい物は、小さな紙包に入っており、周りに呪文が書かれていた。中身を見ることはできそうにない。

「なんですか、これ?」

「まあ、御守りのようなもんだ。進行を食い止めるには心許ないが、ないよりはマシだろう。

 お前、今日は奥さんの部屋で寝るんだろ。ちゃんと見張っとけよ」

「は、はい!ありがとうございます!がんばります!」

「……借りは返したからな。くれぐれも余計なことはするなよ」

 そう言い残し、アシヤは去っていった。

 アシヤは基本ずぼらな人間だが、貸し借りに関しては人より何倍も気を使っている。

 少しでも恩や恨みを帳消しにしたいかのように。お互いの関係にプラスマイナスが出ないように。

 そのことに気づいたのは最近のことである。そしてそれが、アシヤなりの優しさなのではないかということも。

「……素直じゃないですねえ!」

 カガリは御守りを握りしめ、にっと笑った。

―――

 夜。

 虫の音以外は何も聞こえない。

 そこに人が住んでいるとは思えないほどに、スミダ家は静まり返っていた。

 奥方は眠れないのか、……あるいは眠りたくないのか、薄明かりの中本を読んでいる。

 カガリも布団に潜ってはいるものの、目は開いている。脳細胞がじりじりと興奮し、眠気を完全に抑え切っている。

「……すみません。あんな話をした後ですから、私と同じ部屋で寝ろというのも無理がありますよね」

 奥方はカガリの様子を見て、そう言った。

「いえ!私は基本的に慣れない布団だと眠れない体質なので!全然気にしなくていいですよ!」

 カガリは妙に元気だった。

 アシヤの御守りをぎゅっと握る。

「……マオさん、一つ聞いてもいいですか?」

「ええ、なんでしょう?」

「旦那さん……リュウノスケさんは、何も言わないんですか?このことに関して……」

「……」

 奥方は目を伏せ、憂いの帯びた表情に変わった。薄明かりに照らされる顔は、より一層影を強くしていた。

「……そうですね。あの人には何も言っていないので。儀式で忙しい身ですし、あまり周りを見ている余裕もないのでしょう……」

「そんなの変ですよ!見た目もそうだし、一緒に住んでたらすぐわかるんじゃ……!」

「……一緒に、住んでたらそうなのかもしれませんね。」

「?」

「今の私たちは、一緒に暮らしていないのかもしれません。同じ部屋にいても話すことなく、お互いがいないかのように過ごしていたので」

「え……」

「少し前までは、そんなことはなかったはずなのですけどね。お互い遅めの結婚で、まだ三年目なのですよ。仲も良かったし、幸せでした」

「ど、どうして、そんな……」

「ええ、本当に。なぜこうなったのか、わからないのです。思い出そうとすると、頭がぼんやりして…いつから……いつ……」

 どさりと音を立てて、奥方は倒れた。

「マオさん!!」

 慌てて起き上がり、抱き起こす。

 奥方の顔は蒼白く、生気がゆっくりと失われていくのがわかった。

 そしてその白い首元は……。

 じわりじわりと、線状にどす黒い紫が濃くなっていく。

「来た……!」

―――

 障子や家具、部屋にあるものがガタガタと揺れる。

 冷や汗がブワッと吹き出した。

「かはっ……!ぅぐ……」

 奥方は呼吸ができないのか、口を開いて苦しんでいる。それでいて目は固く閉じられ、完全に夢の世界に閉じ込められているようだった。

「マオさん、しっかり……!マオさん!」

 カガリは奥方の体にしがみついた。どこにも行かないように。連れて行かれないように。

 はっと、部屋の隅を見ると、盛り塩があった。なぜかそれは揺れることなく、静かにそこに佇んでいた。

「まだこっちには入ってきてないんだ……!」

 カガリは握りしめていた御守りを奥方の口に入れ、自分が発せられる唯一の詞を必死で思い出した。

 ゼミに入って初めて教えてもらった詞。自分と誰かを守るための詞。短くとも効果の高い詞。

 そして叫んだ。それは言葉ではなかったが、カガリの意志は強く響いた。

「出て行け!!」

―――

 気がつくと、明朝だった。空は明るみ、色を取り戻している。

 奥方を見ると、布団に寝かされ、すうすうと寝息を立てている。

 それを見てほっとしたのも束の間。

 奥方の首は絞められた鬱血痕が、遠目からでも分かるほどにくっきりと残っていた。

「やっと目が覚めたか」

 振り向くと、アシヤが正座で座っていた。

「マオさんは……」

「御守りを使ったから、次目覚めるまでは大丈夫だ。だが次に眠ったときは……」

 言わずともわかる。カガリの少ない霊力ですら、あの邪悪な念は伝わってきた。

「……あの時。マオさん、急に眠っちゃったんです。何かを思い出そうとしたときに……」

「……僕にわかることは二つ。スミダ家は、何か大きなことをやらかしている。そのせいで、昔と同じことが起きようとしている。 今日はそれを調べようと思っていた。だがその前に……」

 アシヤは立ち上がり、障子を開けた。

「……お前の話を聞いた方が良さそうだな」

―――

 数十分後、奥方が起きてきて、朝食の準備をふらつきながら始めた。

 慌てて二人がとりなし、なんとか座らせることができた。

 台所を使わせてもらい、簡単な食事を済ませたあと、二人はアシヤの部屋に移動した。アシヤはカガリの昨晩の話を聞いた後、やはり黙り込んでいた。カガリは、アシヤの考えを聞かずにはいられなかった。

マオさんを襲ってるのはやっぱり河童……なんですか?」

「……半分は当たっている。しかし、どうも引っかかる。昨年まで落ち着いていた河童の霊達が怒り出したことには、何か理由、きっかけがあるはずだ。数十年前の時のように。それがわからなければ、正体なぞわかりようがない」

「……そうですね。じゃあちょっと休憩したら、調べに行きましょう!」

「……いや。お前はここでレポートでも書いてろ。僕は色々とやらなきゃいけないことがあるんでね」

「えー!なんでですか!ここまできてレポートどころじゃないですよぉ!」

「昨晩の件を気絶しないでこなせたなら、連れて行ってやらんこともなかったんだがね。今のお前じゃ使い物にならんよ」

「そんなあ……」

「……それに、奥さんのことも見ておけよ。あんだけ首絞められてたんだから、本当は起き上がっちゃいけないんだからな」

「!……そうですよね……。わかりました」

―――

 奥方が布団で休んでいることを確認したカガリは、同室でレポートを書くことにした。

 とはいえ、色々な雑念が邪魔をして、一文字も進むことのないままペンと紙が机に転がっている。

 なすすべなく、カガリは畳の床に寝転んだ。

 木造の天井。幼い頃は、実家の天井の木目をよく辿っていたことを思い出す。もちろん、それは途中で途切れてしまうのだが、なぜかやめられなかった。

 川の流れを見ているようだ。

 ふと、そう思った。自然物が織りなす流線は、水の流れに通じるものがある。

 そんなことをぼんやりと考えていると、上から顔を覗き込む影が見えた。

「捗りませんか?」

 奥方の顔色はあまり良いとは言えなかったが、昨晩に比べるとだいぶ生気を取り戻していた。

「ですね……」

「無理もありません。何が起きたのかは私にはわかりませんが……巻き込んでしまってすみませんでした」

「え!いいんですよそんな!私だってまだ学生ですがやるときはやるんですから!」

 慌てて奥方は悪くないということを伝えようとするも、うまく言葉が出てこない。

「……いや、それよりひどいんですよアシヤさんは!私のこと体を張る要員としか思ってないんですよ!いや体力には自信あるんですけどね!昨日だって危ないところには私一人で行かせようとしたんですよ!あり得なくないですか?!でも本当に危ない所に行きそうになったら止めてくれるから良いんですけどね!それでいてすぐ私のこと除け者扱いして!使えない、邪魔だって!言い方ってもんがあるじゃないですか!それで大事なことは全部自分一人でやろうとするんですよ!雑用ぐらいなら私にもできるのに……!」

 矢継ぎ早に捲し立てていると、奥方がくすくすと笑っていることに気づいた。

 仲が良いんですね、と笑う奥方を見て、思わず顔が熱くなった。

「すいません……言い過ぎました……」

「ふふ……お気持ちお察ししますよ。私も、主人の仕事に関してはからっきしですし、触れることも許してもらえませんから」

「危ない仕事ですもんね……」

「はい。責任感の強い人ですから。周りに負担をかけまいとしているのでしょう。だから、私も……」

 奥方の目は暗く、沈んでいた。

 ここまでひどくなるほど、一人で抱え込んでしまっていたことは、賢明とは言えない。

 しかしそれほどまでに、他人を巻き込むことを恐れ、二人で歩むことを誓い合ったはずの夫に迷惑をかけることを恐れた奥方は……。

「……それじゃあ、一人でいるのと変わらないじゃないですか!何のためにいるのか、わかんなくなっちゃう……」

「……そうですね。不器用なんですよ。お互いに。でなければここまで……」

「?」

「…いえ。レポートの邪魔をしてしまいごめんなさいね」

 奥方はお水を飲んできますと言って立ち上がった。

 カガリはその寂しげな背中に声をかけた。

「……マオさん!」

「え?」

「人を頼ることって、絶対悪いことじゃないですよ。一緒にいてくれる人なら、尚のことそれを望んでるはず、ですから!」

「……」

「私、マオさんが私たちを頼ってくれたとき、嬉しかったです。きっと、なんとかしてみせます。私と……アシヤさんで!」

「……ありがとう、ございます」

 くしゃりと微笑み、奥方は去っていった。

 目に光るものが見えたのは、気のせいだろうか。

―――

 アシヤが戻ってきたのは、日が暮れつつある午後六時ごろだった。

 帰ってきたアシヤは、両手に荷物を抱えており、もはや荷物が歩いている状況だった。

「遅かったですね!……って、なんですかこれ!だから一緒に行きましょうって言ったのに!」

「準備するぞ、脳筋」

「え?」

「今夜が山場だ。というか今夜しかない。今すぐこの荷物を持って奥さんの部屋に行くぞ」

「話がわかりません!」

 そう言いながらカガリはひょいひょいと荷物をさばき、二人で奥方の部屋に向かった。

 布団で休んでいた奥方も思わず起き上がり、「なんですか……?」と困惑していたが、アシヤは構わずどさりと荷物を置いた。

「奥さん。体調の悪い所すみませんが、少しこの部屋を出ていてもらえませんか?客間で休んでいてください」

「は、はあ……」

「説明してくださいアシヤさん!でなきゃ暴れますよ!」

「何言ってんだお前。暴れなくても説明してやるよ。だから二時間でセッティングするぞ。丑三つ時までに終わらせないとめんどくさいことになるからな」

「そんなに大掛かりなものになるんですね……」

「はい。今夜、あなたの知りたがっていたものの正体がわかりますよ」

 アシヤのいつものヘラッとした顔が、スッとかしこまる。

「覚悟はできていますね?……澄田真緒さん」

―――

 アシヤは、てきぱきと準備をしながら、今日の出来事をカガリに説明した。

「行った場所は役場と病院、あとこの村に一つしかないスーパーだ。スーパーには道具を調達しに行っただけだからいいとして、問題は役場と病院だ。

役場には、あの爺さんが言った通りいろんな資料があった。数十年前の新聞もな。そこには当時亡くなった七人の名前が書かれていた。……いわく、流された子の母親以外は、全員男性だったそうだ。そして、母親は未婚だった、ともあった」

「え!?じ、じゃあ、その赤子って……」

「そう。これ以上は察するに余りあるが、僕たちが考えるべきなのはこの件じゃない。

 数十年前、何が彼らを殺したか、だ。

 数十年前は、流された子が親とその関係者を取り殺した、と考えるのが自然だが、そこに河童が関わるきっかけがあったのだろう。

 あの川には昔、河童が多く住んでいたそうだ。慰霊碑もある。その川に河童の魂が眠っているのは想像に難くない。そこに子が流され、悲痛な声を聞いたとすると……」

「……子供の泣き声が河童の魂を起こした……?」

「その通り。子供の泣き声は半端なく響くからな。河童には相当な負荷がかかったんだろう。

 ……そしてこれは完全に僕の憶測での行動だが、ここらで一番近くの病院に行って、出生記録を確認してきた」

「出生記録?」

「スミダ家に関する記録はなかった。だが、少し聞いた所、奥さんからは聞けなかった事実があることがわかった。おそらくそれが、奥さんが思い出そうとしたことだ」

「え……」

「……思い出せないのなら、事実を確認するまでだ。その事実に基づく行動によっては、数十年前の祟りと条件が一致する」

「そんな、まさか、真緒さん……!」

「……君の考えているとおりだ。

 スミダ家には、子供がいた。

 だが、三十歳以上の出産ともなると、かなり厳しいものになる。子は臨月を待たずして流れてしまったそうだ」

「そんな……」

「夫婦の仲が希薄になったのもこれ以降だろう。奥さんは忘れてしまっているようだが」

「その時、何が起きたんですか…?」

「さあな。それは本人に聞くしかないだろうよ」

「本人に?でも忘れてるんじゃあ……」

「忘れてるだけで、失ったわけじゃない。真実はいつだっていろんな形として残っているものだ。きっかけがあれば、思い出すはずだ」

「それが、忘れていたいほど辛いことでも?」

「正体を知ることを望んでいるのは奥さんだ。僕たちは仕事をするだけさ」

「……」

「他に今回の件とかぶっているのは、首絞め痕と、本人が死ぬまで誰も異変に気づかなかった点だ。どうも奴らは祓われることをよしとしていないようだ。記憶を封じ込め、事実を隠蔽し、来たるべき日に一気に解放する。神主さんが気づかないわけだ」

「で、でも!神主さんが気づかないってよっぽどですよ?霊力も並みじゃないでしょうし……」

「それで言ったら、数十年前の祟りだって防げたはずだ。それだけ相手は手強いってことさ。心してかかりたまえよ、愚直脳筋くん」

「怖いこと言わないでくださいよぉ!」

「……本気でやれよ。他人のおもりまでやってられないんだからな」

「……はい……」

「……よし。こんなもんかな」

 あらかたの準備は終わったようだ。

 部屋には荒縄が敷かれ、傍らには筆で呪文が書かれた半紙が山積みになっている。布団の前には簡易的な祭壇が置かれ、榊や供物用の皿、御神酒などが並べられている。

「これ、一時間で覚えろ」

 アシヤはA4サイズのコピー用紙をカガリの眼前にずいと差し出した。

「……ううん。アシヤさんの字、読みづらいんですよねえ……」

「読めなくても読め。僕よりミミズみたいな字の詞集なんざ山のようにあるんだからな」

「ひゃい……」

 カンペを前にうんうん唸るカガリを尻目に、アシヤは供物の準備を始める。

 奥方、そしてこの村を襲おうとしている何かは、すぐそこまで迫ってきていた。

 光が弱まり、暗闇が濃くなっていく夜。一つの真実だけが、暗がりにそっと横たわっていた。

―――

 夜。

 虫の音が鳴っている。夜だと言うのに部屋の外は蒸し暑く、じわりじわりと汗が滲む。

「……ほんとにやるんですか?」

「モチのロンだ。何の為に急いでここまで準備したと思ってる。それに、今夜が山場だろうからな。これを逃せば、奥さんの命はない」

 カガリは、ごくりと息を呑む。

「ほら、緊張してる暇はないぞ。とっとと持ち場についてくれ」

「……はぁい。上手くできるかな……」

 独りごちながら、カガリは持ち場につく。

「……自分の選択を信じろと言ったのは誰だよ。『信じるものは救われる』じゃなかったのか?」

「!!……そ、そうですよね!ありがとうございます!私、頑張ります!」

 アシヤは部屋を出て、後ろ手で障子を閉めた。

「単純……」

 神主のいる離れは小さく、町の集会所のような佇まいだった。

 周りに縄が引いてあり、来るものを全て拒むようだった。

 アシヤでさえも。

 しかし、引き返すわけにはいかない。

 アシヤはそっと、戸を叩いた。

「はい」

「夜分遅くに失礼します」

 アシヤは扉越しに会話を始めた。

 神主も、穢れを気にしてか、扉を開けようとはしなかった。

「どうかなさいましたか?」

「一つ、ご忠告に参りました」

「……ほう。何でしょう?」

「……明日の御霊会、このままでは間違いなく失敗します」

 神主は一瞬沈黙し、声を低めてアシヤに問うた。

「……理由を、お聞かせ願えますか?」

「前提として、貴方はこの家、いやこの村全体に起こっている変化にお気づきでない。

 今日まで、奥さん、そして河原の祠に何か思うところはございませんでしたか?」

「……祠には毎日通っています。何かあればすぐにわかります。今までもそうでした。家内だって……」

「貴方の『気づいていない』というこの状態が由々しき問題なのです。

 外部から来た、しがない祓師の僕ですら、祠に一歩立ち入れば、その異常に気づきました。

 そして、霊力を持たない後輩にすら目に見えるほどの、奥さんにかけられた呪いにも貴方は気づいていない。奥さんが隠していたとしても限界があるでしょう。

 …これは『気づかないようにさせられている』と考えるほかありません」

「……一体何が起きてるんですか?家内の身に何かあったんですか?」

「先ほど、奥さんの部屋に結界を張りました。貴方の家の中でです。神主である、霊力の高い貴方なら、異変があれば気づかないはずがありません。しかし貴方は来なかった。それで、僕の仮定は確信に変わりました。……貴方の霊力、喰われていますね」

「!!そんな馬鹿な!一体どこから……!」

「来てください。奥さんの部屋に、全ての答えがあります」

 言い終わるや否や、扉が開いた。

 神主の顔は完全に狼狽の色に染まっていた。

 二人は押し黙って奥方のいる部屋に向かった。

―――

 奥方の部屋。

 そこには壁一面に呪文の書かれた半紙が貼り付けられ、祭壇が鎮座していた。

 傍らにはカガリが正座しており、中央には……。

「そんな!どうして……!」

 神主は力なく膝から崩れ落ちる。中央で眠る奥方は、夢の中に閉じ込められ青白くなっていた。

「しっかりしてください。奥さんはまだ生きています」

 アシヤは神主の肩を叩き、部屋に一歩踏み入る。

「奥さんはご内密に、と仰っていましたが。流石に事が事だ。一気に片をつけないとまずい。

 ……その前に、神主さん。貴方に質問をいくつか。半年前、貴方がたのお子さんは不運にも流れてしまった。ですよね?」

「どうしてその事を……!」

「奥さんの命に関わる事です。お答えください」

「……はい」

 神主は状況についていくのに必死だった。

 ただ、己が口を挟んでいる暇がないほどに事態は悪化してしまっていることだけは理解した。

「その時の奥方のご様子、お聞かせ願えますか?」

「……あの時は、いつも通りで。しかし、私が(ミソギ)を行いに家を離れている間に、妻が腹痛を起こし……。病院に着いたときには、もう……」

「その赤子、どのようにされましたか?」

「妻が、自分で最期の面倒を見たいと。滅多に言うことのない、妻のはっきりとした主張でした。私は、供養の方法を教えて、そのまま……」

「……顛末は、ご存知ないのですか?」

「……はい。なぜだろう…こんなに大事なことなのに、忘れていた……?」

 ぼんやりと記憶を辿っていた神主は、突然ハッとした。

「……まさか」

「はい。奥さんの本当の隠し事はそれなのでしょう。それが、河童の怒りを買うものだった。

 詳細は……本人に聞きましょうか」

―――

 アシヤは真っ直ぐ手を伸ばした。

 詞を呟く。夢の中の奥さんにも届く言葉。

 合わせてカガリも詞を唱え始めた。河童の妨害を取り除き、真実を思い出させるために。

「……奥さん。聞こえますか?」

「う……」

「貴方を苦しめているものは、河童だけではありません。しかしその正体を知るためには、貴方の心の内に問わねばなりません。……半年前、赤子をどこにやったんですか?」

「……嫌……」

「現実と向き合わなければ、貴方だけでなく旦那さんも苦しむことになりますよ」

「……私が、もっと、気を遣っていれば……、あの子は……死なずに、済んだ……」

「違う!あれは悪い偶然だ……!」

「ごめん、なさい……。あの子が、いない世界、なんて、耐えられない……。ごめんなさい……。少しでも、あの子と、一緒に、いたかったから……」

 ことり。

 部屋の隅にある小さな文机。その棚が僅かに動いた。

 神主は咄嗟に歩み寄り、棚を開けた。

「……こんな所にいたのか……」

 薬瓶の中で漂う小さな命、だったもの。

 赤子の亡骸が、そこにはあった。

「どういうこと、ですか……?」

 カガリが驚きのあまり呟く。

「奥さんは、赤子の供養をすることなく、ここに縛りつけたんだ。そして赤子の亡骸のそばで、変わらぬ生活を続けた。しかし奥方はその事を忘れてしまった。赤子がいたことすら。罪の意識に耐えられなかったんだろうな。そうして置き去りにされた赤子は寂しさのあまり……」

 アシヤは伸ばしていた腕をぐいと、何かを引っ張るように曲げた。

「眠る河童の霊を起こしてしまった」

 奥方の耳から、黒いモヤのようなものが立ち上る。それは暗雲のようにまとまり、部屋を、奥方の周りを覆った。

「そうして悪夢は出来上がった。これは河童の霊だけではない。赤子の魂、そして奥さんの後悔だ。醜悪な邪念たちはそこら中の霊力を貪り尽くし、他人の記憶を操るほどの強さを持ってしまった」

「……!こっちに引っ張り出したんですか!?そんなことしたら…!」

 一斉に、壁に貼られた半紙が暗雲に張り付いた。

 文字が赤く光り、暗雲が少しずつ縮んでいく。

 暗雲は苦しそうに蠢いていたが……。

 オギャアアアァァァ!!!!!

 それは、凄まじい赤子の泣き声だった。

 全員が耳を塞ぎ、目を瞑る。

 そして目を開けた時には。

 半紙はズタズタに破られ、宙を舞っていた。

「やっぱり駄目か」

 アシヤが呟いたと同時に暗雲は腕のような形になり、奥方の首を締め付けた。

 指は三本。水掻きがある。河童の腕だ。

「ぐっ……!」

「真緒!!」

 縄の中に入ろうとした神主をアシヤの手が制した。

「今の貴方が行っても取り殺されます。貴方の霊力や奥さんの念を喰らったあれはおそらく、我々の力のみで鎮めるのは不可能に近い」

「……マオを差し出せ、というのか?」

 神主の声は、震えていた。

―――

「そんなの駄目ですアシヤさん!それじゃ解決したとは……!」

「奥さんは『正体を教えてほしい』とだけ言った。僕たちの依頼はさっきの時点で完了したんだ」

「違います!マオさんを助けるまでが私たちのやるべき仕事です!」

「それはお前が勝手に決めたことだろう。悪い偶然が重なったとはいえ、河童の怒りを買ったのは奥さん自身だ。命一つで足りるなら安いもんだ」

「……納得いきません!」

 カガリは縄の中に入ろうとするも、アシヤに首根っこを掴まれ、そのままぶん投げられた。

「お人好しも大概にしろよ!なんならお前が奥さんの代わりになるか?それともこの人を無理やり連れ戻して村全体に被害を与えるのか?そっちの方がよっぽど悪い結果なんじゃないのか!?」

「……!!」

 アシヤは、こうなることを予測していたのだろうか。何もできないと知った上で、奥方の依頼をこなそうとしていたのか。

「……お前にはわからんだろうがな。河童の霊をここまで大きくしたのは奥さんだ。自分で自分の首を絞めているようなものだ。奥さんが自分を責め続ける限り、この呪いはもう誰にも止めることができない」

 アシヤの口調は淡々としていたが、その目にはほんの僅かな苦しみが見えた。

 そして聞こえるか聞こえないかぐらいの声で呟く。

「……死が救いとなることもある、か」

 呆然として、奥方を見る。ミシリ、と嫌な音が聞こえた。腕が力を強めたようだ。

 よく見ると、手こそ河童の形をしているが、その腕は細くしなやかで、まるで女性のようだった。

 奥方は、己の首を絞めていた。

 殺すためではなく、苦しめるために。

 ふと、噛み殺すようなうめき声が聞こえる。横を見ると、神主が静かに涙を流していた。

「私のせいで……私が自分のことばかり考えていたから、こんなことに……」

 カガリはハッとした。

 本当にそうなのか?

 相手を思った上でのすれ違いではないのか?

 この人たちは、誰も傷つけようとしていないじゃないか。

「……交渉しましょう」

 アシヤは、その日初めてカガリの目を見た。

「あ?」

「誰も死ななくていい方法を見つけるんです。河童の霊に事情を伝えて、謝って、裁量を軽くしてもらうんです!」

「おい、そんなの……」

「アシヤさんの得意分野でしょ!妖には妖の言い分、人には人の言い分があるんです。相手が強いからって妥協する理由にはなりません!そんなの共生だなんて言えませんよ!!」

 一息に捲し立てた。アシヤは呆れたような顔で、カガリを見つめていた。

「……勝ち目はあるのか?」

「わかりません!ただ心を込めて謝るのみです!」

 アシヤは天を仰ぎ「なんだこいつ……」とぼやいている。

「そ、それでも駄目なら、力尽くでも……!」

「……それだ」

「え?」

 アシヤはすっくと背を伸ばし、いつものヘラついた顔が活気を取り戻した。

「たった今非常に崇高な案を思いついた!しかもこの愚直脳筋が役に立ついい機会だ」

 二人は、ポカンとしていきり立つアシヤを見つめる。

「まあこの案を通すには僕が相手を丸め込まないといけないわけだが……わけないさ。黙って見てるといい」

 アシヤは黒雲に向き直り、詞を唱え始めた。その内容は、カガリにはわからなかった。おそらく、神主にもわからないのだろう。息を呑んで見つめている。

 黒雲はモゾモゾと腕から形を変え、奥方の首から離れた。

「マオ!」

「すごい……流石ですアシヤさん!」

「じわじわと絞めていたおかげで助かった。まだ息はある。だが……問題はここからだぞ」

 神主が奥方を縄の外から出した途端、布団が取り払われ、畳に白線が引かれる。

 そして黒雲は姿を変え……。

 水掻きを持った、筋肉質な腕と足。

 背中には甲羅。頭にはひだのついた皿。

 どす黒い河童の姿が、そこにあった。

―――

「……なんですか、これは?」

「相撲だ」

「え?」

「河童は相撲が好きだろう。

 ここにあんたらより相撲が強い奴を連れてきたから、お前が勝ったらお咎めなし。負けたらここにいる人間全員祟り殺してもいいという話だ」

「本当ですか!」

「ちょ、そんな、無謀すぎる!そんな小さな体で出来るはずが……!」

「腕が鳴りますねえ!」

「ええ……」

「言っとくが、さっきかなり馬鹿にされてたぞ。女人禁制とか細かいことは抜きだ。強い者が勝つ。ほら、とっとと行け」

「はい!」

「そんな……原因は私たちなのに……あの子に責任を押し付けるなんて……」

「あいつは見かけによらず筋肉馬鹿なんですよ。しかも一度決めたことは絶対に曲げない、愚直脳筋です。今ここでなんとかできる奴はあいつぐらいなんで、やむを得ません」

「でも!相手は怒れる妖ですよ?」

「そこらへんはまあ、僕も賭けです。やらないよりはマシだ。それに……」

 アシヤは準備を整えるカガリを見て、ふうと息をついた。

「どうもあいつは本気で世界を変えるつもりらしいんでね。この程度で負けてちゃただの馬鹿だ」

 カガリは準備ができたのか、振り返る。

「なんですかー?応援ぐらいしてくださいよー!」

「負けたら殺す」

「やだなー!アシヤさんの手を借りるまでもないですよ!」

 カガリはしばし深呼吸をして、精神を整えた。

 縄の中に足を踏み入れる。

 目の前には黒々とした河童の姿。

 怒り、憎しみ、後悔といった負の感情の中にも、ピリピリとした闘志を感じる。

 カガリは肩幅に足を開き、腹の底から声を出した。

「たのもーーー!!!」

―――

 カガリの掛け声が響き渡ると同時に、戦いの火蓋が切って落とされた。

 空気を揺らすほどの勢いで、お互いの体がぶつかり合う。

 河童は、カガリより一回りも大きな体を揺らし、彼女の足を土俵際まで追い詰める。

「ああ!やっぱり強い……!」

 目を覆いそうになる神主を横目に、アシヤはただ静かに見つめている。

「ぐぐぐ……!」

 カガリは柔道黒帯だ。その他のスポーツも心得ている。

 腕力や足腰は一般女性のそれより遥かに強いが、それでも大柄な相手となるとてこずってしまう。

 故に彼女は技術を磨いた。相手の力を利用するのだ。推進力を受け流し、投げようとする相手を投げる。

 カガリは目の前の相手の動きを見極め、さっと横に切り返した。

 河童は勢い余ってつんのめり、縄の外を越えそうになる。

「おお!」

 しかし相手は熟練者だ。そう易々と負けはしない。

 土俵際で踏ん張り、体勢を素早く整えた。

 一瞬、時が止まったかのようにお互いの動きが止まる。

 河童の顔は暗く泥をかぶっているかのようで、表情は読み取れない。しかし、カガリを馬鹿にすることはやめたようだ。

 地響きが鳴らんばかりの四股を踏んだ。

 カガリはそれを見てニッと笑う。

「……油断してあっさり投げられないようにしてくださいよ!」

―――

 川のせせらぎの音が聞こえる。

 地に足はしっかりとついているのに、心地よい浮遊感がある。

 ざあざあという音に紛れて、声が聞こえる。

 子供の声だ。

 遊んでいるのだろうか。

 興奮しているのか、時折金切り声が耳をつんざく。

 ざらざらとした砂利が足を刺す。

 今の私と、河童たちの取り組みが重なる。

 歓声。野次。そのどれもが暖かい。

 暗雲。

 突然、周りの河童たちが苦しみ始めた。

 喉を押さえて血反吐を吐き、ばたばたと倒れていく。

 遠くに人影が走り去って行くのが見えた。

 手を伸ばそうとしたが、縄の外には出られない。

 あとには、目の前の彼だけが呆然と立ち尽くしていた。

 ……人の手で滅びたというの?

 彼は、じっと私の目を見つめている。

 そこには怒りも悲しみもなく、ただ虚空だけが映っていた。

 ……。

 ぐっ、と拳を握る。

 腰を落とし、彼を見据えた。

「……来い!」

 私には、貴方たちの無念の大きさは計り知れないけれど。

 それでもこうやってぶつかり合うことはできる。

 この衝撃が、この痛みが、私にとっての現実。

 だから、私も全力でぶつかろう。

 ――現在を生きる人たちのために。

―――

 どれだけ時間が経ったのだろう。

 熾烈なぶつかり合いだった。

 神主とアシヤはただ見守るばかりだ。

「……どっちが勝つんだ……?」

「さてね。でもまあ、あいつは粘り強いですから。……それに、これは勝ち負けの問題じゃないんですよ」

「え?」

「そろそろ、聞こえてきませんか?霊力が戻りつつある今なら」

 神主はハッと辺りを見回した。試合に刮目するあまり、何が起きているのか気づかなかった。

 霊力が、戻ってきている。

 それに気づいたと同時に、歓声は聞こえてきた。

 野次るような嫌な空気ではない。

 見えない何かは両者の健闘を称えていた。

『いいぞ!』

『そこだ!あっ!あぶねえー!』

『ここまできたんだから負けんじゃねえぞー!』

『おいチビ!踏ん張りが足んねえんじゃねえかー!?』

『いけー!』

 方々から聞こえる、興奮有り余る声。

 これは現実なのか。夢のような、浮世離れした空間が、そこにあった。

「彼らのボルテージもだいぶ上がってきたみたいですね」

「こ、これは……」

「勝ち負け以上に大事なのは、河童を納得させることだ。あっさり負けても勝ってもつまらないんですよ。そういった点でみると、あいつは適役だ」

「河童を……納得させる……こんな方法で……?」

 鳴り止まない歓声。汗が飛び散り、キラキラと光る。お互いの体力は限界に近い。

 一旦距離を取り、じりじりと間合いを詰める。

「なかなか、やるじゃないですか!」

 汗を拭い、不敵な笑みを浮かべるカガリ。

 その姿に、アシヤは野次を飛ばす。

「おーい、そろそろ勝たなきゃ死ぬぞー」

「……わかってますよ!河童たちの怒りも、マオさんの後悔も、お子さんの寂しさも、全部まとめてブッ飛ばします!」

 お互い、見つめ合う。目は見えなくとも、カガリの目を見ていることはわかる。

 取組を通じて、安らかな眠りを妨げられた河童たちの怒りを知った。

 かつては人と共に歩み、人を愛していたことを知った。

 その愛した人たちの手で住処を汚され、滅びていった河童たちの無念を知った。

 しかしそれは過去のこと。

 現在を生きる者たちを妨げる理由にはならない。

 河童。

 スミダ家。

 赤子。

 それぞれの時を進めるために、カガリは足を踏み出す。

 駆けたのは、ほぼ同時。

 ……まっすぐ向かってくる相手に負けることはない。

 カガリは前に出る相手の力を使って腕をつかみ、懐に飛び込んだ。

―――

 一瞬の静寂。

 倒れているのは、大きな河童。

 何者かが呟く。

「……勝負あり」

 同時に、わあわあと鳴り響く歓声。

 何やら光るものが飛び交っている。座布団のようだ。それは地面につくと同時にふわりと消える。

『やったー!!』

『ちくしょー!あいつは俺らの中で一番強かったのに!』

『チビ!やるじゃねえか!』

『あいつに賭けときゃよかった……』

『いやぁ、あっぱれあっぱれ!いい取組だった!!』

 破れんばかりの歓声は、次第に遠くなっていく。

 そして最後に、倒れたままの河童が一人。

 呆然としているようでも、余韻に浸っているようでもあった。

 カガリは呼吸を整え、静かに手を差し伸べる。

「……いい勝負でしたね」

 河童の喉元が震え、目の前の河童は初めて声を発した。

 ……きゃっきゃっ。

 それはまるで、赤子の笑う声のようだった。

―――

 夢を見ていた。

 あの子が隣にいる。

 楽しそうに笑っている。

 誰かと遊んでいるのだろうか。

 ……。

 ああ……。

 本当は、貴方と共に生きていきたかったけれど。

 ごめんね。

 もう、大丈夫だから。

 待たせてごめんね。

 私のところに来てくれて、ありがとう。

 一緒にいてくれて、ありがとう。

 あの子が、私の目を見た。

 笑っている。

 きっと、私も。

―――

蒸し上がりそうな暑さ。

 蝉はわんわんと空気を揺らす。

 二日前歩いてきた畦道を、二人はゆっくり歩いていた。もう待ち合わせの予定はない。それぞれの家路に戻るだけだ。

 ふと、口を開いたのはカガリだった。

「……河童たち、もう怒ってませんかね?」

「……でなきゃあの時、あんなにあっさり消えやしないさ。現に僕たち生きてるし。御霊会もつつがなく遂行された」

「……ですよね!」

「しかし……」

 アシヤ、河原を見遣る。

 子供たちが浅瀬で遊んでいる。

 その横では……。

「昨日の今日で、ちびっこ相撲大会を決行するとは誰も思わなかったろうな」

「リュウノスケさんたち、意外と行動力ありますよね!それに村の人たちもこんなに集まるなんて……。ほんとにみんな相撲好きなんですね!」

「どうも君の馬鹿力に感銘を受けたそうだよ。よかったねえ馬鹿力で!」

「はい!河童たちの魂もきっと盛り上がってますよ!」

「今のは皮肉なんだがね」

「それに、奥さんも良くなりそうで安心しました」

「あんなに礼を言われるぐらいなら、もう少し報酬を貰ってもよかったな」

「もう!現金ですねえ!」

 むっと頬を膨らませた彼女は、ふと思い立ったように表情を曇らせる。

「……マオさん、立ち直れるでしょうか……」

 奥方が目を開けたのは明け方のことだった。

 上りつつある太陽を、飴細工のように透き通った黒い瞳が見つめていた。

「……さあな。そこまで面倒は見てやれない。……しかし」

 カガリら三人に気づいた奥方は、そっと微笑んだ。

 数時間前までのどこか儚げで影のある笑顔ではなく、生きる力を宿した美しい笑顔。

「僕の目から見る限り。奥さんの表情は晴れやかだったよ」

「……そうですね」

 そう言う二人の表情も、どことなく晴れやかな色を纏っていた。

「……さあて、帰ったらカスミさんに飯でも奢って貰おうかな、っと」

「え!私も行きたいです!」

「お前は引っ付いてただけだろ」

「そんなことないですよ!相撲に勝ったのは私ですよ!ほらほら!」

「それで河童たちが納得するよう説得したのは僕だ」

「そんなぁー!」

 キラキラと輝く日差しの中。

 言い合う二人の背後を、小さな影が笑いながら風のように駆けて行った。  そのことに気づいた者は、誰もいない。

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