その後、奥方はこの二日間宿泊する部屋を案内してくれた。
アシヤは客室で、カガリは奥方と同室で寝ることになった。
そして奥方は昼食の準備のため、挨拶をして去っていった。
客室に残された二人は、しばらく沈黙を保っていたが、 数分してカガリが耐えきれず口を開いた。
「……どうかしたんですか、アシヤさん?」
「どうしたもこうしたもないだろう!
カスミさんめ、やっぱりこうなることを見越して僕らに仕事を押し付けたんだ!
課外授業にかこつけて!露骨に怪しすぎると思ったよ!何が納涼だ!外はすこぶる暑いし!」
アシヤは苦虫を噛み潰したような顔で恨み言を吐き散らした。
カガリはその姿をもう何度となく見ているため、火に油を注ぐことになると知りながら、いつものように宥めた。
「まあまあ、蜘蛛の糸にかかったのはアシヤさんじゃないですかぁ。
それに、放っておけませんよこんなこと!
なんせ人の命がかかってるんですから!」
「この善意の塊もついてきたのが厄介だ!
話がややこしくなる!」
「誰が善意の塊ですか!テレるじゃないですか!」
「単細胞花畑とでも言い換えてやろうか?このお人好しが!
二つ返事で了解しやがって!仕事すんのは僕なんだからな!」
「もちろんお手伝いしますよ!
それに、目の前で困ってる人がいたら助けるのが私の信条ですからね!
アシヤさんがやらないと言っても私がやります!」
カガリはアシヤの機嫌に臆することなく胸を張る。
アシヤはそれを見てますます人相が凶悪になっていく。
「その信条とやらに他人を巻き込むのはいい加減やめてもらいたいがね!
いいから余計なことはするなよ!お前に仕事させたら山一つ吹き飛びかねんからな!!」
アシヤはそう吐き捨て自分の身支度を始めた。
カガリは今年の春から祓の術を学び始めたばかりだ。
一朝一夕で身につく術ではないとはいえ、その迷走っぷりはカスミもこめかみを押さえるレベルだった。
狙ったところに当たらない、詞の読み方を間違える、そもそも詞が読めない。
大学屋外にて、祓を使って紙飛行機の軌道を変えるという実践授業をしたときには、軌道を大いに逸らし、遥か遠くで歩いていた教育学部長のカツラを勢いよく吹き飛ばした。
アシヤはその光景の始終を見て抱腹絶倒の大笑い、そして学部長の怒りを買い単位を一つ落とした。
……そんなわけで、カガリは校外での祓の使用は非常に限られている。
アシヤもカガリの技術に関しては全く信用していない。
しかし、アシヤを苛立たせる原因はもっと別のところにある。
「……再三言ってるがな、恨みも恩も同じ『業』だ。
奥さんの頼みを聞いてやったとして、何も起こらないとは限らないんだからな」
業。
人と人、人と妖が干渉し合った際に生まれるもの。
自業自得、因果応報、自縄自縛。
自らの行いは必ずなんらかの形で返ってくるものだ。
それは徳であり、罪である。
助けた者が殺人鬼だとしたら、それは善か。
不治の病に喘ぎ苦しむ者を介錯するとしたら、それは悪か。
それを決めるのは、人ではない。
全ては業のなすがまま。
人を裁く術が法ならば、この世に生きる全ての存在全てを裁くのは業である。
……それが、今までの経験から得たアシヤの考えだった。
「……いたずらに人の頼みなんか聞くもんじゃない。その結果起こることに僕たちは責任なんか持てないんだ。
だから僕は……」
カガリはアシヤの背中を見た。背丈は比較的高いにもかかわらずその背中は丸く、本来より一回り小さく見えた。
年齢。性別。家族構成。経歴。
それらが積み重なって構築される価値観。
アシヤとカガリは、その全てが正反対と言っていいほどに異なっている。
故に彼らはしばしば衝突する。
どれだけ想いを伝えても、どれだけ意見を重ねても、お互いが歩み寄ることができないほどに、溝は深かった。
共感されたいわけでも、同情されたいわけでもない。
ただお互いがそうであることを認められないのだ。
認めてしまえば、己が積み重ねてきた全てが崩れてしまうから。
……それでも。
この溝から逃げてはならない。
そう、カガリは思うのだ。
「……だから、『なるべく他人の人生に関わりたくない』ですよね?」
カガリはアシヤの背中に一歩近づく。
「大丈夫ですよ。
それでも良いことをすれば良いこととして、悪いことをすれば悪いこととして返ってくることには変わりありません」
『人事を尽くして天命を待つ』
カガリの座右の銘だ。
どんなに辛いことがこれから起きるとしても、行動せずに後悔するより行動して後悔したい。
カガリは、未来の結果よりも、目の前にいる者の心を信じていたいのだ。
「……それに、アシヤさんは敏腕祓師ですしね!自分の選択を信じましょうよ!
『信じる者は救われる』ですよ!
……私、真緒さんを手伝ってきます!」
カガリはぱたぱたと廊下を走っていった。
アシヤはそれを横目で見やる。
カガリの背中は夏の日差しに照らされ、目が霞むほど白く見えた。
背中を丸めた男は自分の手に目を落とす。
日向に目が眩んだのか、陰の中にある手はどす黒く汚れているように見えた。
男は誰に語りかけるでもなく呟く。
「他人にとっての幸不幸も、僕たちが推し量ることはできない。
それこそ……
『死が救い』になったりしてな」
―――
奥方の作った昼食は、簡素ながらも質が良く、品の良い味だった。
カガリと奥方は先ほどの話など嘘のように、会話に花開かせていた。
それは心配させまいとする、カガリの気遣いでもあった。
しかしアシヤは会話にほとんど加わることなく、黙々と食事を進めていた。
カガリが茶碗についた最後の米粒を口に運んだとき、アシヤはぽつりと呟いた。
「では、レポートの資料収集に行ってきます。村の地図はありますか?」
奥方は「はい、こちらに」となんの疑いもなく答えたが、カガリはわかっていた。
アシヤは基本、自分の行動を相手に明かす性格ではないことを。
そして、アシヤが生真面目に課題をやる人間ではないことを。
地図をもらいに席を立ったアシヤは、近くにあったチラシに目を止めた。
「……これも一枚貰ってもいいですか?」
「え?ああ、いいですよ。このイベントも、けっこう盛り上がるんですよ。御霊会とは関係ないですけど……」
「いえ、ありがとうございます。では行ってきます」
アシヤが一人で外に出ようとするのを見て、カガリは慌てて席を立った。
「あ、私も行ってきます!えと、レポート書きに!」
「はい、行ってらっしゃいませ」
奥方は二人の姿を微笑んで見送った。
―――
澄田家の門前。
日は高く、湿り気を帯びた熱気が体をつきまとう。
二人は滲む汗を拭きながら門の外へと踏み出した。
アシヤは釈然としない顔でカガリの方をちらと見る。
「……君はついてこなくてもよかったんだがね」
「何言ってんですか!
これも課外授業の一環ですよ!」
「物は言いようだなあ」
「またまたー!隠さなくたってわかりますよ!
真緒さんの異変について調べるんでしょ?
どこから調べるんですかっ?」
そわつくカガリをあしらいながら、アシヤは腕を組み、黙っていた。先程の奥方の話を思い返しているようだ。
「……真緒さんに異変が起きたきっかけは『河原で遊ぶと人が一人増える』という噂を聞いてから。
それに『河原』の話をした時の奥さんのあの反応……。調べないわけにはいかないな」
「河原に行くんですか?でも関係者以外立ち入り禁止って……」
「なればいいじゃないか。関係者に」
「えぇ?」
「あんだけでかい川だ、おそらく管理人がいるだろう。それに……」
アシヤは先程手に入れたチラシを横目で見た。
カガリが覗こうとしたが、同じタイミングで鞄にしまわれてしまった。
「……まぁ、そいつと話をつければ、河原を調べることができる」
「なるほど、全うですね。
アシヤさんのことだから、こっそり忍び込むのかと思っちゃいましたよ!」
「何言ってんだ、人聞きの悪い。
神主がいる地のテリトリーは、下手に荒らすことはできない。『郷に入れば郷に従え』ってやつだ」
そう言い終わらないうちに、アシヤはすたすたと歩き出した。
「へえー。あ、待ってくださいよー!」
―――
河原の水は、遠目でわかるほど澄んでおり、夏の日差しをキラキラと反射しながら流れていた。
「わあー!綺麗!魚釣りしたくなりますねえ!」
「いるぞ、そこに。魚」
アシヤは遠くを指差した。
「え!どこどこ?」
カガリがアシヤの指差す方向に向かって近づくと……。
バチィッ!
青白い閃光が一瞬放たれ、カガリは思わず尻餅をついた。
「いたぁーっ!なんですかこれ!」
「ふむ、ここまでが立ち入り禁止か。やはり軽い結界も張ってあるな」
「ひどい!私を実験台にしないでくださいよ!」
「たいしたことないだろ、これぐらい。子供がふざけて入ろうとしても大丈夫な安心設計だ。
さて、管理人は……」
アシヤが辺りを見回す。
小屋が一軒ある以外、特に気になるものはない。
……よく見ると、小屋の中から一人、老人が出てきた。
「……」
「こんにちは!」
「……」
老人はこちらをちらりと見やり、アシヤたちとは反対方向に歩き出した。
「あれ、どっか行っちゃった……」
「ガードが固い爺さんだな。
よし、お前。あのご老体を投げてこい」
一瞬の沈黙。それは速攻で破られる。
「えぇ!?何血迷ったこと言ってんですか!」
「簡単だろう。お前なら」
「そういう問題じゃないですよ!嫌ですよ完全にやばい人になっちゃうじゃないですか!」
「大丈夫だって。なんとかなるって。
純真無垢なこの僕の言うことを信じなさい」
そう言ってアシヤはとんと自身の胸板を拳で軽く叩いた。
「あからさまに心にもないことを……!
嫌です!どうせまた痛い目に合うんでしょ!」
断固拒否の姿勢を取るカガリを見て、アシヤは大仰な動作で両手を上げ、やれやれと息をついた。
「……全く、しょうがないなあ。
そんなお前に魔法の呪文を唱えてやろう」
そう言うと、二人の周りを静けさが包んだ。
カガリは何か言われるのかと身構える。しかし何も起こらない。
五秒ほど経ってからアシヤを見ると、彼は黙っているのではなく、息を吸い込んでいると言うことに気がついた。
そして。
「たのもーーーー!!!!!」
村中に響き渡らんとする大声。
蝉は鳴くのを止め、木々に止まっていた鳥達がバサバサと飛び立つ音が聞こえた。
山彦が反響し、それが止むまでカガリの耳鳴りは治まらなかった。
「……び、びっくりしたぁ……。
アシヤさんなんの脈絡もなくこういうことするの今度からなしにしましょうよ〜。
……ん?」
ふと見ると、先ほどの老人が走って来ている。
砂煙を上げんばかりの凄まじい勢いだ。
その目は完全にアシヤ達を捕らえていた。
「わわわ……!」
向かって来た老人を、アシヤは紙一重でひらりとかわす。
老人は勢いを殺さぬまま、即座に標的をカガリに変えて向かってくる。
「う、ぅわぁぁぁーっ!!」
カガリの恐怖の叫びが、一面の緑にこだました。