『河童』転の章

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 澄田家に戻ると、奥方は快く出迎えてくれた。
 しかし同時に、カガリの手の傷を見た途端、持っていたお盆を取り落としてしまった。その顔はひどく狼狽している。

「カガリさん!その傷……!あの川に行ったんですか!?」

「へ!え、えっと……」

「調査のために管理人から許可を得て立ち入りました。そこでこいつが遊んで川の中に混じってたガラスで切ったんですよ」

「そ、そうなんですね……」

 嘘がつけないカガリの代わりにアシヤがうまく誤魔化すと、奥方はなんとか納得してくれたようだった。それでも不安の表情は消えない。

「やっぱり、あの川に何かあるのでしょうか……?」

「……小さな不幸が重なると、嫌でも悪い方向に考えてしまうものです」

「大丈夫、自分たちの身は自分で守れます。
 だから奥さんも気をしっかり持ちましょう、ね!」

 カガリはうろたえる奥方の肩を優しく叩いた。
 奥方はまだ不安げな表情をしていたが、黙って頷いた。

 数分後各々の部屋に戻り、カガリが荷物の整理をしていると、背中にコツンと何かが飛んできた。

「いて。……アシヤさん?」

 アシヤは部屋に入らず、障子にもたれかかっている。

「それを今日は一晩中持っておけ。盛り塩も忘れるなよ」

 背中に投げられたらしい物は、小さな紙包に入っており、周りに呪文が書かれていた。中身を見ることはできそうにない。

「なんですか、これ?」

「まあ、御守りのようなもんだ。進行を食い止めるには心許ないが、ないよりはマシだろう。
 お前、今日は奥さんの部屋で寝るんだろ。ちゃんと見張っとけよ」

「は、はい!ありがとうございます!がんばります!」

「……借りは返したからな。くれぐれも余計なことはするなよ」

 そう言い残し、アシヤは去っていった。
 アシヤは基本ずぼらな人間だが、貸し借りに関しては人より何倍も気を使っている。

 少しでも恩や恨みを帳消しにしたいかのように。お互いの関係にプラスマイナスが出ないように。

 そのことに気づいたのは最近のことである。そしてそれが、アシヤなりの優しさなのではないかということも。

「……素直じゃないですねえ!」

 カガリは御守りを握りしめ、にっと笑った。

 ―――

 夜。
 虫の音以外は何も聞こえない。
 そこに人が住んでいるとは思えないほどに、澄田家は静まり返っていた。

 奥方は眠れないのか、……あるいは眠りたくないのか、薄明かりの中本を読んでいる。

 カガリも布団に潜ってはいるものの、目は開いている。脳細胞がじりじりと興奮し、眠気を完全に抑え切っている。

「……すみません。あんな話をした後ですから、私と同じ部屋で寝ろというのも無理がありますよね」

 奥方はカガリの様子を見て、そう言った。

「いえ!私は基本的に慣れない布団だと眠れない体質なので!全然気にしなくていいですよ!」

 カガリは妙に元気だった。
 アシヤの御守りをぎゅっと握る。

「……真緒さん、一つ聞いてもいいですか?」

「ええ、なんでしょう?」

「旦那さん……流ノ介さんは、何も言わないんですか?このことに関して……」

「……」

 奥方は目を伏せ、憂いの帯びた表情に変わった。薄明かりに照らされる顔は、より一層影を強くしていた。

「……そうですね。あの人には何も言っていないので。儀式で忙しい身ですし、あまり周りを見ている余裕もないのでしょう……」

「そんなの変ですよ!見た目もそうだし、一緒に住んでたらすぐわかるんじゃ……!」

「……一緒に、住んでたらそうなのかもしれませんね。」

「?」

「今の私たちは、一緒に暮らしていないのかもしれません。同じ部屋にいても話すことなく、お互いがいないかのように過ごしていたので」

「え……」

「少し前までは、そんなことはなかったはずなのですけどね。お互い遅めの結婚で、まだ三年目なのですよ。仲も良かったし、幸せでした」

「ど、どうして、そんな……」

「ええ、本当に。なぜこうなったのか、わからないのです。思い出そうとすると、頭がぼんやりして…いつから……いつ……」

 どさりと音を立てて、奥方は倒れた。

「真緒さん!!」

 慌てて起き上がり、抱き起こす。
 奥方の顔は蒼白く、生気がゆっくりと失われていくのがわかった。
 そしてその白い首元は……。

 じわりじわりと、線状にどす黒い紫が濃くなっていく。

「来た……!」

 ―――

 障子や家具、部屋にあるものがガタガタと揺れる。
 冷や汗がブワッと吹き出した。

「かはっ……!ぅぐ……」

 奥方は呼吸ができないのか、口を開いて苦しんでいる。それでいて目は固く閉じられ、完全に夢の世界に閉じ込められているようだった。

「真緒さん、しっかり……!真緒さん!」

 カガリは奥方の体にしがみついた。どこにも行かないように。連れて行かれないように。

 はっと、部屋の隅を見ると、盛り塩があった。なぜかそれは揺れることなく、静かにそこに佇んでいた。

「まだこっちには入ってきてないんだ……!」

 カガリは握りしめていた御守りを奥方の口に入れ、自分が発せられる唯一の詞を必死で思い出した。

 ゼミに入って初めて教えてもらった詞。自分と誰かを守るための詞。短くとも効果の高い詞。

 そして叫んだ。それは言葉ではなかったが、カガリの意志は強く響いた。

「出て行け!!」

―――

 気がつくと、明朝だった。空は明るみ、色を取り戻している。

 奥方を見ると、布団に寝かされ、すうすうと寝息を立てている。
 それを見てほっとしたのも束の間。
 奥方の首は絞められた鬱血痕が、遠目からでも分かるほどにくっきりと残っていた。

「やっと目が覚めたか」

 振り向くと、アシヤが正座で座っていた。

「真緒さんは……」

「御守りを使ったから、次目覚めるまでは大丈夫だ。だが次に眠ったときは……」

 言わずともわかる。カガリの少ない霊力ですら、あの邪悪な念は伝わってきた。

「……あの時。真緒さん、急に眠っちゃったんです。何かを思い出そうとしたときに……」

「……僕にわかることはふたつ。
 澄田家は、何か大きなことをやらかしている。そのせいで、昔と同じことが起きようとしている。
 今日はそれを調べようと思っていた。だがその前に……」

 アシヤは立ち上がり、障子を開けた。

「……お前の話を聞いた方が良さそうだな」

 ―――

 数十分後、奥方が起きてきて、朝食の準備をふらつきながら始めた。
 慌てて二人がとりなし、なんとか座らせることができた。

 台所を使わせてもらい、簡単な食事を済ませたあと、二人はアシヤの部屋に移動した。

 アシヤはカガリの昨晩の話を聞いた後、やはり黙り込んでいた。
 カガリは、アシヤの考えを聞かずにはいられなかった。

「真緒さんを襲ってるのはやっぱり河童……なんですか?」

「……半分は当たっている。しかし、どうも引っかかる。昨年まで落ち着いていた河童の霊達が怒り出したことには、何か理由、きっかけがあるはずだ。数十年前の時のように。それがわからなければ、正体なぞわかりようがない」

「……そうですね。じゃあちょっと休憩したら、調べに行きましょう!」

「……いや。お前はここでレポートでも書いてろ。僕は色々とやらなきゃいけないことがあるんでね」

「えー!なんでですか!ここまできてレポートどころじゃないですよぉ!」

「晩の件を気絶しないでこなせたなら、連れて行ってやらんこともなかったんだがね。今のお前じゃ使い物にならんよ」

「そんなあ……」

「……それに、奥さんのことも見ておけよ。あんだけ首絞められてたんだから、本当は起き上がっちゃいけないんだからな」

「!……そうですよね……。わかりました」

 ―――

 奥方が布団で休んでいることを確認したカガリは、同室でレポートを書くことにした。
 とはいえ、色々な雑念が邪魔をして、1文字も進むことのないままペンと紙が机に転がっている。
 なすすべなく、カガリは畳の床に寝転んだ。

 木造の天井。幼い頃は、実家の天井の木目をよく辿っていたことを思い出す。
 もちろん、それは途中で途切れてしまうのだが、なぜかやめられなかった。

 川の流れを見ているようだ。

 ふと、そう思った。自然物が織りなす流線は、水の流れに通じるものがある。

 そんなことをぼんやりと考えていると、上から顔を覗き込む影が見えた。

「捗りませんか?」

 奥方の顔色はあまり良いとは言えなかったが、昨晩に比べるとだいぶ生気を取り戻していた。

「ですね……」

「無理もありません。何が起きたのかは私にはわかりませんが……巻き込んでしまってすみませんでした」

「え!いいんですよそんな!
 私だってまだ学生ですがやるときはやるんですから!」

 慌てて奥方は悪くないということを伝えようとするも、うまく言葉が出てこない。

「……いや、それよりひどいんですよアシヤさんは!私のこと体を張る要員としか思ってないんですよ!いや体力には自信あるんですけどね!昨日だって危ないところには私一人で行かせようとしたんですよ!あり得なくないですか?!でも本当に危ない所に行きそうになったら止めてくれるから良いんですけどね!それでいてすぐ私のこと除け者扱いして!使えない、邪魔だって!言い方ってもんがあるじゃないですか!それで大事なことは全部自分一人でやろうとするんですよ!雑用ぐらいなら私にもできるのに……!」

 矢継ぎ早に捲し立てていると、奥方がくすくすと笑っていることに気づいた。
 仲が良いんですね、と笑う奥方を見て、思わず顔が熱くなった。

「すいません……言い過ぎました……」

「ふふ……お気持ちお察ししますよ。
 私も、主人の仕事に関してはからっきしですし、触れることも許してもらえませんから」

「危ない仕事ですもんね……」

「はい。責任感の強い人ですから。
 周りに負担をかけまいとしているのでしょう。
 だから、私も……」

 奥方の目は暗く、沈んでいた。
 ここまでひどくなるほど、一人で抱え込んでしまっていたことは、賢明とは言えない。
 しかしそれほどまでに、他人を巻き込むことを恐れ、二人で歩むことを誓い合ったはずの夫に迷惑をかけることを恐れた奥方は……。

「……それじゃあ、一人でいるのと変わらないじゃないですか!
 何のためにいるのか、わかんなくなっちゃう……」

「……そうですね。不器用なんですよ。お互いに。
 でなければここまで……」

「?」

「…いえ。
 レポートの邪魔をしてしまいごめんなさいね」

 奥方はお水を飲んできますと言って立ち上がった。
 カガリはその寂しげな背中に声をかけた。

「……真緒さん!」

「え?」

「人を頼ることって、絶対悪いことじゃないですよ。
 一緒にいてくれる人なら、尚のことそれを望んでるはず、ですから!」

「……」

「私、真緒さんが私たちを頼ってくれたとき、嬉しかったです。
 きっと、なんとかしてみせます。私と……アシヤさんで!」

「……ありがとう、ございます」

 くしゃりと微笑み、奥方は去っていった。
 目に光るものが見えたのは、気のせいだろうか。

―――

 アシヤが戻ってきたのは、日が暮れつつある午後六時ごろだった。

 帰ってきたアシヤは、両手に荷物を抱えており、もはや荷物が歩いている状況だった。

「遅かったですね!
 ……って、なんですかこれ!だから一緒に行きましょうって言ったのに!」

「準備するぞ、脳筋」

「え?」

「今夜が山場だ。というか今夜しかない。
 今すぐこの荷物を持って奥さんの部屋に行くぞ」

「話がわかりません!」

 そう言いながらカガリはひょいひょいと荷物をさばき、二人で奥方の部屋に向かった。

 布団で休んでいた奥方も思わず起き上がり、
「なんですか……?」と困惑していたが、アシヤは構わずどさりと荷物を置いた。

「奥さん。体調の悪い所すみませんが、少しこの部屋を出ていてもらえませんか?客間で休んでいてください」

「は、はあ……」

「説明してくださいアシヤさん!でなきゃ暴れますよ!」

「何言ってんだお前。暴れなくても説明してやるよ。だから二時間でセッティングするぞ。丑三つ時までに終わらせないとめんどくさいことになるからな」

「そんなに大掛かりなものになるんですね……」

「はい。今夜、あなたの知りたがっていたものの正体がわかりますよ」

 アシヤのいつものヘラッとした顔が、スッとかしこまる。

「覚悟はできていますね?……澄田真緒さん」

 ―――

 アシヤは、てきぱきと準備をしながら、今日の出来事をカガリに説明した。

「行った場所は役場と病院、あとこの村に一つしかないスーパーだ。
 スーパーには道具を調達しに行っただけだからいいとして、問題は役場と病院だ。

 役場には、あの爺さんが言った通りいろんな資料があった。
 数十年前の新聞もな。そこには当時亡くなった七人の名前が書かれていた。
 ……いわく、流された子の母親以外は、全員男性だったそうだ。そして、母親は未婚だった、ともあった」

「え!?じ、じゃあ、その赤子って……」

「そう。これ以上は察するに余りあるが、僕たちが考えるべきなのはこの件じゃない。

 数十年前、何が彼らを殺したか、だ。

 数十年前は、流された子が親とその関係者を取り殺した、と考えるのが自然だが、そこに河童が関わるきっかけがあったのだろう。
 あの川には昔、河童が多く住んでいたそうだ。慰霊碑もある。その川に河童の魂が眠っているのは想像に難くない。そこに子が流され、悲痛な声を聞いたとすると……」

「……子供の泣き声が河童の魂を起こした……?」

「その通り。子供の泣き声は半端なく響くからな。
 河童には相当な負荷がかかったんだろう。

 ……そしてこれは完全に僕の憶測での行動だが、ここらで一番近くの病院に行って、出生記録を確認してきた」

「出生記録?」

「澄田家に関する記録はなかった。だが、少し聞いた所、奥さんからは聞けなかった事実があることがわかった。おそらくそれが、奥さんが思い出そうとしたことだ」

「え……」

「……思い出せないのなら、事実を確認するまでだ。その事実に基づく行動によっては、数十年前の祟りと条件が一致する」

「そんな、まさか、真緒さん……!」

「……君の考えているとおりだ。

 澄田家には、子供がいた。

 だが、三十歳以上の出産ともなると、かなり厳しいものになる。子は臨月を待たずして流れてしまったそうだ」

「そんな……」

「夫婦の仲が希薄になったのもこれ以降だろう。奥さんは忘れてしまっているようだが」

「その時、何が起きたんですか…?」

「さあな。それは本人に聞くしかないだろうよ」

「本人に?でも忘れてるんじゃあ……」

「忘れてるだけで、失ったわけじゃない。真実はいつだっていろんな形として残っているものだ。きっかけがあれば、思い出すはずだ」

「それが、忘れていたいほど辛いことでも?」

「正体を知ることを望んでいるのは奥さんだ。僕たちは仕事をするだけさ」

「……」

「他に今回の件とかぶっているのは、首絞め痕と、本人が死ぬまで誰も異変に気づかなかった点だ。
 どうも奴らは祓われることをよしとしていないようだ。記憶を封じ込め、事実を隠蔽し、来たるべき日に一気に解放する。神主さんが気づかないわけだ」

「で、でも!神主さんが気づかないってよっぽどですよ?霊力も並みじゃないでしょうし……」

「それで言ったら、数十年前の祟りだって防げたはずだ。それだけ相手は手強いってことさ。心してかかりたまえよ、愚直脳筋くん」

「怖いこと言わないでくださいよぉ!」

「……本気でやれよ。他人のおもりまでやってられないんだからな」

「……はい……」

「……よし。こんなもんかな」

 あらかたの準備は終わったようだ。
 部屋には荒縄が敷かれ、傍らには筆で呪文が書かれた半紙が山積みになっている。
 布団の前には簡易的な祭壇が置かれ、榊や供物用の皿、御神酒などが並べられている。

「これ、一時間で覚えろ」

 アシヤはA4サイズのコピー用紙をカガリの眼前にずいと差し出した。

「……ううん。
 アシヤさんの字、読みづらいんですよねえ……」

「読めなくても読め。僕よりミミズみたいな字の詞集なんざ山のようにあるんだからな」

「ひゃい……」

 カンペを前にうんうん唸るカガリを尻目に、アシヤは供物の準備を始める。

 奥方、そしてこの村を襲おうとしている何かは、すぐそこまで迫ってきていた。
 光が弱まり、暗闇が濃くなっていく夜。一つの真実だけが、暗がりにそっと横たわっていた。

―――

夜。
 虫の音が鳴っている。
 夜だと言うのに部屋の外は蒸し暑く、じわりじわりと汗が滲む。

「……ほんとにやるんですか?」

「モチのロンだ。何の為に急いでここまで準備したと思ってる。
 それに、今夜が山場だろうからな。これを逃せば、奥さんの命はない」

 カガリ、ごくりと息を呑む。

「ほら、緊張してる暇はないぞ。
 とっとと持ち場についてくれ」

「……はぁい。上手くできるかな……」

 独りごちながら、カガリは持ち場につく。

「……自分の選択を信じろと言ったのは誰だよ。
『信じるものは救われる』じゃなかったのか?」

「!!
 ……そ、そうですよね!
 ありがとうございます!私、頑張ります!」

 アシヤは部屋を出て、後ろ手で障子を閉めた。

「単純……」

 神主のいる離れは小さく、町の集会所のような佇まいだった。
 周りに縄が引いてあり、来るものを全て拒むようだった。
 アシヤでさえも。
 しかし、引き返すわけにはいかない。
 アシヤはそっと、戸を叩いた。

「はい」

「夜分遅くに失礼します」

 アシヤは扉越しに会話を始めた。
 神主も、穢れを気にしてか、扉を開けようとはしなかった。

「どうかなさいましたか?」

「一つ、ご忠告に参りました」

「……ほう。何でしょう?」

「……明日の御霊会、このままでは間違いなく失敗します」

 神主は一瞬沈黙し、声を低めてアシヤに問うた。

「……理由を、お聞かせ願えますか?」

「前提として、貴方はこの家、いやこの村全体に起こっている変化にお気づきでない。
 今日まで、奥さん、そして河原の祠に何か思うところはございませんでしたか?」

「……祠には毎日通っています。何かあればすぐにわかります。今までもそうでした。
 家内だって……」

「貴方の『気づいていない』というこの状態が由々しき問題なのです。
 外部から来た、しがない祓師の僕ですら、祠に一歩立ち入れば、その異常に気づきました。
 そして、霊力を持たない後輩にすら目に見えるほどの、奥さんにかけられた呪いにも貴方は気づいていない。奥さんが隠していたとしても限界があるでしょう。
 …これは『気づかないようにさせられている』と考えるほかありません」

「……一体何が起きてるんですか?家内の身に何かあったんですか?」

「先ほど、奥さんの部屋に結界を張りました。
 貴方の家の中でです。神主である、霊力の高い貴方なら、
 異変があれば気づかないはずがありません。
 しかし貴方は来なかった。それで、僕の仮定は確信に変わりました。

 …貴方の霊力、喰われていますね」

「!!
 そんな馬鹿な!一体どこから……!」

「来てください。奥さんの部屋に、全ての答えがあります」

 言い終わるや否や、扉が開いた。
 神主の顔は完全に狼狽の色に染まっていた。
 二人は押し黙って奥方のいる部屋に向かった。

 ―――

 奥方の部屋。
 そこには壁一面に呪文の書かれた半紙が貼り付けられ、祭壇が鎮座していた。
 傍らにはカガリが正座しており、中央には……。

「そんな!どうして……!」

 神主は力なく膝から崩れ落ちる。
 中央で眠る奥方は、夢の中に閉じ込められ青白くなっていた。

「しっかりしてください。奥さんはまだ生きています」

 アシヤは神主の肩を叩き、部屋に一歩踏み入る。

「奥さんはご内密に、と仰っていましたが。
 流石に事が事だ。一気に片をつけないとまずい。

 ……その前に、神主さん。貴方に質問をいくつか。
 半年前、貴方がたのお子さんは不運にも流れてしまった。ですよね?」

「!どうしてその事を……!」

「奥さんの命に関わる事です。お答えください」

「……はい」

 神主は状況についていくのに必死だった。
 ただ、己が口を挟んでいる暇がないほどに事態は悪化してしまっていることだけは理解した。

「その時の奥方のご様子、お聞かせ願えますか?」

「……あの時は、いつも通りで。
 しかし、私が禊を行いに家を離れている間に、妻が腹痛を起こし……。
 病院に着いたときには、もう……」

「その赤子、どのようにされましたか?」

「妻が、自分で最期の面倒を見たいと。
 滅多に言うことのない、妻のはっきりとした主張でした。
 私は、供養の方法を教えて、そのまま……」

「……顛末は、ご存知ないのですか?」

「……はい。なぜだろう…こんなに大事なことなのに、忘れていた……?」

 ぼんやりと記憶を辿っていた神主は、突然ハッとした。

「……まさか」

「はい。奥さんの本当の隠し事はそれなのでしょう。それが、河童の怒りを買うものだった。
 詳細は……本人に聞きましょうか」

 ―――

 アシヤは真っ直ぐ手を伸ばした。

 詞を呟く。夢の中の奥さんにも届く言葉。
 合わせてカガリも詞を唱え始めた。河童の妨害を取り除き、真実を思い出させるために。

「……奥さん。聞こえますか?」

「う……」

「貴方を苦しめているものは、河童だけではありません。しかしその正体を知るためには、貴方の心の内に問わねばなりません。

 ……半年前、赤子をどこにやったんですか?」

「……嫌……」

「現実と向き合わなければ、貴方だけでなく旦那さんも苦しむことになりますよ」

「……私が、もっと、気を遣っていれば……、あの子は……死なずに、済んだ……」

「違う!あれは悪い偶然だ……!」

「ごめん、なさい……。あの子が、いない世界、なんて、耐えられない……。ごめんなさい……。少しでも、あの子と、一緒に、いたかったから……」

 ことり。

 部屋の隅にある小さな文机。その棚が僅かに動いた。
 神主は咄嗟に歩み寄り、棚を開けた。

「……こんな所にいたのか……」

 薬瓶の中で漂う小さな命、だったもの。
 赤子の亡骸が、そこにはあった。

「どういうこと、ですか……?」

 カガリが驚きのあまり呟く。

「奥さんは、赤子の供養をすることなく、ここに縛りつけたんだ。そして赤子の亡骸のそばで、変わらぬ生活を続けた。
 しかし奥方はその事を忘れてしまった。赤子がいたことすら。罪の意識に耐えられなかったんだろうな。
 そうして置き去りにされた赤子は寂しさのあまり……」

 アシヤは伸ばしていた腕をぐいと、何かを引っ張るように曲げた。

「眠る河童の霊を起こしてしまった」

 奥方の耳から、黒いモヤのようなものが立ち上る。それは暗雲のようにまとまり、部屋を、奥方の周りを覆った。

「そうして悪夢は出来上がった。これは河童の霊だけではない。赤子の魂、そして奥さんの後悔だ。
 醜悪な邪念たちはそこら中の霊力を貪り尽くし、他人の記憶を操るほどの強さを持ってしまった」

「……!こっちに引っ張り出したんですか!?そんなことしたら…!」

 一斉に、壁に貼られた半紙が暗雲に張り付いた。
 文字が赤く光り、暗雲が少しずつ縮んでいく。
 暗雲は苦しそうに蠢いていたが……。

 オギャアアアァァァ!!!!!

 それは、凄まじい赤子の泣き声だった。
 全員が耳を塞ぎ、目を瞑った。
 そして目を開けた時には。

 半紙はズタズタに破られ、宙を舞っていた。

「やっぱり駄目か」

 アシヤが呟いたと同時に暗雲は腕のような形になり、奥方の首を締め付けた。
 指は三本。水掻きがある。河童の腕だ。

「ぐっ……!」

「真緒!!」

 縄の中に入ろうとした神主をアシヤの手が制した。

「今の貴方が行っても取り殺されます。貴方の霊力や奥さんの念を喰らったあれはおそらく、我々の力のみで鎮めるのは不可能に近い」

「……真緒を差し出せ、というのか?」

 神主の声は、震えていた。

次話

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