第一部『河童』結

カガリの掛け声が響き渡ると同時に、戦いの火蓋が切って落とされた。
空気を揺らすほどの勢いで、お互いの体がぶつかり合う。
河童は、カガリより一回りも大きな体を揺らし、彼女の足を土俵際まで追い詰める。
「ああ!やっぱり強い……!」
目を覆いそうになる神主を横目に、アシヤはただ静かに見つめている。
「ぐぐぐ……!」
カガリは柔道黒帯だ。その他のスポーツも心得ている。
腕力や足腰は一般女性のそれより遥かに強いが、それでも大柄な相手となるとてこずってしまう。
故に彼女は技術を磨いた。相手の力を利用するのだ。推進力を受け流し、投げようとする相手を投げる。
カガリは目の前の相手の動きを見極め、さっと横に切り返した。
河童は勢い余ってつんのめり、縄の外を越えそうになる。
「おお!」
しかし相手は熟練者だ。そう易々と負けはしない。
土俵際で踏ん張り、体勢を素早く整えた。
一瞬、時が止まったかのようにお互いの動きが止まる。
河童の顔は暗く泥をかぶっているかのようで、表情は読み取れない。しかし、カガリを馬鹿にすることはやめたようだ。
地響きが鳴らんばかりの四股を踏んだ。
カガリはそれを見てニッと笑う。
「……油断してあっさり投げられないようにしてくださいよ!」

―――

川のせせらぎの音が聞こえる。
地に足はしっかりとついているのに、心地よい浮遊感がある。
ざあざあという音に紛れて、声が聞こえる。
子供の声だ。
遊んでいるのだろうか。
興奮しているのか、時折金切り声が耳をつんざく。
ざらざらとした砂利が足を刺す。
今の私と、河童たちの取り組みが重なる。
歓声。野次。そのどれもが暖かい。

暗雲。

突然、周りの河童たちが苦しみ始めた。
喉を押さえて血反吐を吐き、ばたばたと倒れていく。
遠くに人影が走り去って行くのが見えた。
手を伸ばそうとしたが、縄の外には出られない。
あとには、目の前の彼だけが呆然と立ち尽くしていた。

……人の手で滅びたというの?

彼は、じっと私の目を見つめている。
そこには怒りも悲しみもなく、ただ虚空だけが映っていた。
……。
ぐっ、と拳を握る。
腰を落とし、彼を見据えた。
「……来い!」
私には、貴方たちの無念の大きさは計り知れないけれど。
それでもこうやってぶつかり合うことはできる。
この衝撃が、この痛みが、私にとっての現実。
だから、私も全力でぶつかろう。

――現在を生きる人たちのために。

―――

どれだけ時間が経ったのだろう。
熾烈なぶつかり合いだった。
神主とアシヤはただ見守るばかりだ。
「……どっちが勝つんだ……?」
「さてね。でもまあ、あいつは粘り強いですから。……それに、これは勝ち負けの問題じゃないんですよ」
「え?」
「そろそろ、聞こえてきませんか?霊力が戻りつつある今なら」
神主はハッと辺りを見回した。試合に刮目するあまり、何が起きているのか気づかなかった。
霊力が、戻ってきている。
それに気づいたと同時に、歓声は聞こえてきた。
野次るような嫌な空気ではない。
見えない何かは両者の健闘を称えていた。
『いいぞ!』
『そこだ!あっ!あぶねえー!』
『ここまできたんだから負けんじゃねえぞー!』
『おいチビ!踏ん張りが足んねえんじゃねえかー!?』
『いけー!』
方々から聞こえる、興奮有り余る声。
これは現実なのか。夢のような、浮世離れした空間が、そこにあった。
「彼らのボルテージもだいぶ上がってきたみたいですね」
「こ、これは……」
「勝ち負け以上に大事なのは、河童を納得させることだ。あっさり負けても勝ってもつまらないんですよ。そういった点でみると、あいつは適役だ」
「河童を……納得させる……こんな方法で……?」
鳴り止まない歓声。汗が飛び散り、キラキラと光る。お互いの体力は限界に近い。
一旦距離を取り、じりじりと間合いを詰める。
「なかなか、やるじゃないですか!」
汗を拭い、不敵な笑みを浮かべるカガリ。
その姿に、アシヤは野次を飛ばす。
「おーい、そろそろ勝たなきゃ死ぬぞー」
「……わかってますよ!河童たちの怒りも、真緒さんの後悔も、お子さんの寂しさも、全部まとめてブッ飛ばします!」
お互い、見つめ合う。目は見えなくとも、カガリの目を見ていることはわかる。
取組を通じて、安らかな眠りを妨げられた河童たちの怒りを知った。
かつては人と共に歩み、人を愛していたことを知った。
その愛した人たちの手で住処を汚され、滅びていった河童たちの無念を知った。
しかしそれは過去のこと。
現在を生きる者たちを妨げる理由にはならない。
河童。
澄田家。
赤子。
それぞれの時を進めるために、カガリは足を踏み出す。
駆けたのは、ほぼ同時。
……まっすぐ向かってくる相手に負けることはない。
カガリは前に出る相手の力を使って腕をつかみ、懐に飛び込んだ。

―――

一瞬の静寂。
倒れているのは、大きな河童。
何者かが呟く。
「……勝負あり」
同時に、わあわあと鳴り響く歓声。
何やら光るものが飛び交っている。座布団のようだ。それは地面につくと同時にふわりと消える。
『やったー!!』
『ちくしょー!あいつは俺らの中で一番強かったのに!』
『チビ!やるじゃねえか!』
『あいつに賭けときゃよかった……』
『いやぁ、あっぱれあっぱれ!いい取組だった!!』
破れんばかりの歓声は、次第に遠くなっていく。
そして最後に、倒れたままの河童が一人。
呆然としているようでも、余韻に浸っているようでもあった。
カガリは呼吸を整え、静かに手を差し伸べる。
「……いい勝負でしたね」
河童の喉元が震え、目の前の河童は初めて声を発した。

……きゃっきゃっ。

それはまるで、赤子の笑う声のようだった。

夢を見ていた。
あの子が隣にいる。
楽しそうに笑っている。
誰かと遊んでいるのだろうか。
……。
ああ……。
本当は、貴方と共に生きていきたかったけれど。
ごめんね。
もう、大丈夫だから。
待たせてごめんね。
私のところに来てくれて、ありがとう。
一緒にいてくれて、ありがとう。
あの子が、私の目を見た。
笑っている。
きっと、私も。

蒸し上がりそうな暑さ。
蝉はわんわんと空気を揺らす。
二日前歩いてきた畦道を、二人はゆっくり歩いていた。もう待ち合わせの予定はない。それぞれの家路に戻るだけだ。
ふと、口を開いたのはカガリだった。
「……河童たち、もう怒ってませんかね?」
「……でなきゃあの時、あんなにあっさり消えやしないさ。現に僕たち生きてるし。御霊会もつつがなく遂行された」
「……ですよね!」
「しかし……」
アシヤ、河原を見遣る。
子供たちが浅瀬で遊んでいる。
その横では……。
「昨日の今日で、ちびっこ相撲大会を決行するとは誰も思わなかったろうな」
「流ノ介さんたち、意外と行動力ありますよね!それに村の人たちもこんなに集まるなんて……。ほんとにみんな相撲好きなんですね!」
「どうも君の馬鹿力に感銘を受けたそうだよ。よかったねえ馬鹿力で!」
「はい!河童たちの魂もきっと盛り上がってますよ!」
「今のは皮肉なんだがね」
「それに、奥さんも良くなりそうで安心しました」
「あんなに礼を言われるぐらいなら、もう少し報酬を貰ってもよかったな」
「もう!現金ですねえ!」
むっと頬を膨らませた彼女は、ふと思い立ったように表情を曇らせる。
「……真緒さん、立ち直れるでしょうか……」

奥方が目を開けたのは明け方のことだった。
上りつつある太陽を、飴細工のように透き通った黒い瞳が見つめていた。

「……さあな。そこまで面倒は見てやれない。……しかし」

カガリら三人に気づいた奥方は、そっと微笑んだ。
数時間前までのどこか儚げで影のある笑顔ではなく、生きる力を宿した美しい笑顔。

「僕の目から見る限り。奥さんの表情は晴れやかだったよ」
「……そうですね」
そう言う二人の表情も、どことなく晴れやかな色を纏っていた。
「……さあて、帰ったらカスミさんに飯でも奢って貰おうかな、っと」
「え!私も行きたいです!」
「お前は引っ付いてただけだろ」
「そんなことないですよ!相撲に勝ったのは私ですよ!ほらほら!」
「それで河童たちが納得するよう説得したのは僕だ」
「そんなぁー!」
キラキラと輝く日差しの中。
言い合う二人の背後を、小さな影が笑いながら風のように駆けて行った。
そのことに気づいた者は、誰もいない。

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