第二部『天邪鬼』急

金の眼を持つそれは、妖だった。

二つの塊から流れる液体はどす黒い靄を放っている。

なぜ。

どうして。

そんな思考が生まれるより前に、神経回路はバチバチと焼き切れていく。

その眼は、人を拒絶する眼。

私を殺す眼。

怖い。

怖い。

助けて。

……。
ふわり。

温かい風が、血が乾きパリパリになった皮膚を撫でた。

あの時の風と、同じ。

優しい風。

さっき、これを吸い込む詞を教えてもらったんだっけ。

……詞?

肺いっぱいに、息を吸い込む。
あの時の詞は、きっとまだ使えるはずだ。
これは遠い昔の出来事。
だけどこれは今じゃない。
私には決めたことがある。
目の前の惨劇を、終わらせるために。
だからここで、折れるわけにはいかない。

―――

凛とした声。
「ぎゃっ!」
その声と同時に手鏡が音を立てて割れ、サグメは弾かれたように数メートル転がっていった。
カガリは起き上がり、突っ伏しているサグメを見つめている。
「お、お前、自力で術を破ったのか!?」
「よくわからないけど、そうみたいです」
「な、なんで……アレに取り込まれたら、術をかけられてることに気づかない限り解けないのに……」
そこまで言って、ギロリとアシヤを睨む。
「余計なことしやがって……!」
「簡単な裏技で解ける程度の術をかけたのが悪いんだろ?」
「うるさい!こうなったら力尽くで……!」
飛びかかるサグメを、今のカガリは見逃さなかった。
俊敏な動きで腕を首に回し、固める。
「いだだだだ!!」
「話を聞いてください、サグメさん。
私がなぜこの石を返したくなかったかわかりますか?」
「そんなの……!」
「貴方の優しさを、貴方自身が裏切るなんて、信じたくなかった」
ハッと、一瞬虚をつかれたように固まる。しかしすぐにカガリを睨みつけた。
「馬鹿言うな!僕は妖だぞ!保身のためなら誰だって裏切る!お前の過去だって覗き見てやった!お前、妖に親を殺された癖に僕を信じるなんて、何考えてんだよ!」
カガリは考え込むように黙って、袈裟固めを続ける。
反面、アシヤ一同はポカンとしてそれを見つめていた。
「あいつ……妖相手に固め技使ってやがる」
「何を見せられてんだ……」
妖に物理技は効かないわけではないが、すぐに肉体を魂へと質を変えて逃げられてしまうことが多い。
しかし、カガリはしっかりとサグメの体を捉えて離さなかった。
「……あいつは……」
アシヤは、一冊の文献を思い出していた。
霊力は肉体に宿り、術は心で放つ。
無論、霊力を保持できる受け皿は個人差だ。
それを超えた霊力は、言霊や意志の強さによって流れ、体内の霊力のバランスを保っているのだ。
霊力を持たないものには、元々肉体に宿っていない場合と、肉体には宿っているが心との回路が繋がっていない場合がある。
後者の場合は非常に稀で、術はほぼ使えない代わり、心に回らなかった分の霊力が体内に蓄積され、妖に直接触れて影響を及ぼすことが可能である。
「……厄介だな」
アシヤがそんなことを考えていると、カガリはようやく口を開いた。
「……そうです。私の両親は妖に殺されました」

―――

「……四歳の冬でした。ある日、深夜にふと目が覚め、水を飲みに台所へ降りようとしました。それは今思えば、虫の知らせのようなものだったのかもしれません。居間は真っ暗でしたが、何かがいる気配がしました。両親かと思い声をかけようとしましたが、幼い私にもわかるほど、その空気は鋭く尖っていました」
訥々と語るカガリに表情はない。
「そこには確かに両親がいました。しかし生きてはいませんでした。真っ黒な血溜まりの中で、金色に光る眼が私を見つめていました」
一同は黙って聞いている。
「そこから先はほとんど記憶がありません。今の家族のところに引き取られ、しばらくは口もきけず、何かにずっと怯えていたそうです」
俯いていたカガリは、そこでふと顔を上げた。
「でも私はいつからか怯えるのをやめました。
それは私一人の力ではありません。今の家族や周りの人達、様々な環境が、私の背中を押してくれたんです」

―――

サグメは見ていた。
術を使った時に流れ込んできた記憶。
泣いている幼いカガリを優しく抱き上げる男。
その周りで心配そうに見ている子供たち。
ここは道場だろうか。カガリが男に抱き上げられて、子供たちの試合を見ている。
「前を向け。立ち向かうんだ。恐怖に呑まれないために。お前にはその力がある」
場面が変わると、カガリは道着を着ていた。
初めは泣きながら組手をしていたが、それでも練習をやめることはなかった。
綱を登り、腹筋や腕立てを欠かさず、型を何度も繰り返した。
カガリは何度も何度も泣いていたが、折れることは一度もなかった。
長い鍛錬の末。
カガリは泣くのをやめ、いつしか自分よりも大きな相手を投げ飛ばすようになっていた。

―――

「……なるほど、それならよかったじゃないか」
サグメが口を挟む。そして、キッと睨んだ。
「しかし、だからなんだ?なぜ君はここに来た?ここは妖を学ぶ場だ。妖が怖いんだろう?なぜ関わろうとする?」
「……怖いのは、相手のことを知らないからだと思います」
その時、サグメとカガリの視線が交わった。
「理解できないものに、人は恐怖心を抱きます。私もあの金色の眼が怖いです。何も見えない暗闇が怖いです。あなたの金色の眼が、怖いです」
アシヤはカガリの手を見る。
その手は強く握りしめられ、微かに震えていた。しかしその目はしっかりと、サグメの眼を捉えていた。
「だから、私は知りたいと思いました。妖のこと。両親を殺した何かのこと。ここに来れば、私の中にある恐怖心を克服できるのでは、と」
「だからって!僕を信じたところで何も変わらないぞ!僕の本質は悪!嘘つきだ!頭から信じたって自分が傷つくだけじゃないか!」
サグメは嘘をつく。だが己の所業を忘れたことはない。
全ては保身のため。生きるためだった。
飢えを凌ぐために食べ物を盗んだ時も。
鬼だと言って僕を虐めてきた奴らにトラウマを植え付けてやった時も。
言葉も。この目も。カスミに拾われた時に全部嘘で隠した。
カガリもまた、僕の本当の眼を恐れている。
人と妖がわかりあえるなんて嘘だ。
偽物の絆なんていらない。
君もまた、そうに違いない。
「……そうですね。私も、少し前までずっと悩んでいました。妖と……恐怖の対象と、分かり合えるのかと。
でも、カスミさんが面談の時に教えてくれたんです」

―――

去年の十一月。
『どのゼミに行こうか、迷ってるとのことだけど』
カスミが持っているのはカガリの進路希望書だ。
その紙は白かった。
『……はい』
『……カガリくん。人と妖に共通している点は、どこだと思う?』
『……』
カスミは自身の胸に手を当てる。
『それは心だ。妖にも人にも、心がある。心がある限り、お互いは対立することもできるし、共存することもできる。外側ではなく内側を見ることだよ。種や外見ではなく、心を見なさい。それが一番、本質に近い所だよ』
その顔は、いつもと変わらない笑顔だった。

―――

「そんなことを言われたのは初めてで。この人の元で学びたいと強く思ったのも初めてでした。そして、私はその言葉を信じることにしました。妖に心がある限り、私はそれを信じます。サグメさんも、妖として見れば天邪鬼。でも私が信じるのは妖ではなくサグメさんです。あの時のサグメさんの優しさを信じます」
カガリはそういって、石をぎゅっと握りしめる。
「だから、この石は渡せません」
沈黙。
サグメは、カガリの目をじっと見ていた。
時間が止まったかのように、動かない二人。
先に動いたのはサグメだった。
唐突にぶっと吹き出し、からからと笑い始めたのだ。
「あっははは!なんだそれ!ほんと意味わかんない!そんなの理由になる?!てか、妖じゃなくて僕を信じる?そんなこと言う奴滅多にいないって!」
その笑いに先程までの不穏さはなく、どうやら素で笑っているようだった。
ひとしきり笑い終えたサグメは、一息ついてカガリを見る。
「……あーあ。なんか、どうでも良くなっちゃった。いいよ。その石はあげる。
僕も観念してやるよ。そろそろマジでこの体勢痛いし」
「ほんとですか!」
「おい、また騙そうって話なら……」
言いかけるアシヤをサグメは目で制す。
その目は笑っていたが、心底この状況がどうでも良くなったような顔をしていた。
「ないない。もうあれには興味なくなっちゃったもん。それに………」
そう言って、キョトンとしているカガリを見る。
「僕、君の行く末の方が気になってきちゃったよ。君のその愚直な魂が、一体どこに向かうのか……ね」
カガリはそれを聞き、ゆっくりとサグメの腕を放した。サグメはぱんぱんと膝を払う。
「……さて、どうする?カスミ。どうせ君にとっては茶番なんだろうけど。罰なら受けるよ」
「そうだねえ。まぁこれでカガリくんの性質もわかったことだし……」
「ちょっと待ってください」
咄嗟にカガリが手を出す。
「……カスミさん!いつからそこに!?」
「うーん、けっこう前」
「えぇ……」
カスミは音もなくカガリたちの近くに歩み寄る。
アシヤはまたかと言わんばかりに眉を顰めている。
「まさかサグメくんがそこまで僕の仕事に不満を持っていたなんてね。悪いことをしたよ」
「白々しいぞカスミ!シュレッダーかけやら窓拭きやらの雑用はおろか、数日ぶっ通しで陣を張らされたりしたこと、忘れたとは言わせないからな!」
憤慨するサグメを見ても、カスミはやっぱりニコニコしている。
「でも、気を変えてくれたんでしょ?」
「ぐっ……」
「そうだねえ。君も罰を受けたいのならそうしてもいいけど、それで君がしばらく動けなくなるのも困るしな……」
「……やっぱり、カスミさんの掌の上だったか。ちっ、そのまま寝ときゃよかった」
考えるカスミとひとりごちるアシヤ。そして嫌な予感に冷や汗をかいているサグメを目の前に、カガリはぽかんとしていた。
「……全部、カスミさんが仕組んだことなんですか?」
「いや、僕が何かしたわけじゃないよ。ただ、カガリくんの今後について考えていたら、サグメくんとの契約が緩んでいたみたいだね。いやぁ、うっかりうっかり」
「あれ緩んでたの!?」
「当たり前だろ。こんな馬鹿素人にカスミさんの契約が破れるもんか。なんらかの意図が働いてたに決まってる」
「契約を緩めるなんてことできるんですか……?」
「まあね。そこに気づくとは、流石アシヤくん」
そこで、カスミはポンと手を打った。
「そうだ!サグメくん、半年ほどアシヤくんと契約してもらおうかな」
「えぇ!!」
露骨に嫌そうな顔をする二人。
「欲しがってただろ、手下」
「要りませんよ、こんな毎秒謀反考えてそうな奴」
「色々とひどい!!」
「アシヤくんの元なら僕の目も届くし、なんなら僕よりよくしごいてくれるだろうさ」
「やだ!こいつ嫌い!助けてカガリちゃん!」
そう言ってカガリに縋ろうとするサグメをべりべりと引き剥がすカスミの笑顔は、カガリの目から見ても真っ黒だった。
「ひぇ……」
「ははは、そう言うなよ。これからは君とアシヤくんとで、カガリくんの面倒を見てもらう、ということで」
その言葉に真っ先に反応したのはアシヤだった。
一瞬目を見開き、即座に険悪な表情に変わる。
「はあぁ!?なんで僕がこいつの!?カスミさん、こんなイレギュラーまみれな女の面倒なんか見たくありませんよ!」
「えー、でも真っ先に助けに来てたじゃないか」
最も痛い所を突かれたような顔をして、硬直する。
言われてみれば、カガリが組み伏せられた時も、術に囚われた時も、現実に戻してくれたのはアシヤの術だ。
カガリは改めてかしこまり、アシヤに頭を下げる。
「アシヤさん……先程はありがとうございました」
アシヤはちらっとカガリを見て舌打ちをする。
「……別に、お前がどうなろうが知ったこっちゃないんだよ。僕はな、しょうもない妖のせいでしょうもない奴が被害に遭ってしょうもない責任を負わされるのが嫌だっただけだ!うまくいったのもこの鬼が心底馬鹿だったからだ!」
「ひどい!」
「……それでも、私を助けてくれたのはアシヤさんです。過去に囚われた時の術、アシヤさんのものだってなんとなくわかりましたよ。アシヤさんがすごい能力の持ち主だってことも」
カガリは頭を上げ、アシヤの目を見る。
目が合った途端、アシヤは嫌そうに目を細めた。
「私、アシヤさんの術も、アシヤさんのことももっと知りたいです。これから、よろしくお願いします!」
アシヤはふいと顔を逸らした。陰で表情が見えなくなる。
「……君みたいな」
「え?」
「君みたいな愚直脳筋に、僕の高度な術が理解できるわけないだろ?せいぜいたまに来る客の茶でも汲んで隅っこで縮こまってるといい」
「はい!頑張ります!」
「あとゼミ室の机の配置もなんとかしろ。講義してると後から入りづらいんだよ。あ、窓際のソファの位置は変えるなよ」
「お任せください!」
「君たち……そんなんでいいの……?」
「うーん、仲良くなれそうでよかったねぇ。
じゃ、話が終わったらちゃんと契約するんだよ、サグメ」
「えぇ〜〜〜。こいつ変な術使うからな……」
「契約書に『逆らったら雷を落とす』って書いてもいいんだからな?」
「やめて!」
「ふん。せいぜい役に立てよ、馬鹿鬼」
「うわぁん!カスミぃ、こいつ人でなしだよぉ!!」
彼らが様々な事件に立ち会い、彼らなりの関係を築くようになるのは、もう少し先の話である。
そんなことを知る由もない上級生一同は、言い合う彼らを見てため息をつく。
「大丈夫かな、この人たち……」

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