第二部『天邪鬼』序

春。
ぽかぽかとした陽気の日向に、微かな冷えを残した風が空を滑る。
桜の花はもう直ぐ満開で、白い花びらが優しい雨のように降っている。
何かが始まるにはちょうどいい日和であった。
十時五十分。
陸陽大学妖怪学科春見(カスミ)ゼミのオリエンテーションが始まる時間だ。
大きな机を囲む椅子は八席。埋まっているのは七席。
そのうちの一番端に座っている初老の男性……このゼミの教授、カスミが口を開いた。
「……じゃあ、まずは二年から自己紹介してもらおうか」
「はっ、はい!」
小柄な少女は勢いよく立ち上がった。
反動で椅子が倒れそうになるのを慌てて隣の男性が支える。
緊張からかそのことすら気づかない少女は肺いっぱいに空気を吸い込み、身の底から割れんばかりの声を繰り出した。
「か、カガリサツキです!!!」
さっとカスミが手を出して遮る。
「カガリくん、声もうちょっと落として」
「す、すいません!」
見ると周りのゼミ生全員が顔をしかめ耳を押さえている。
二、三度深呼吸をしたカガリは、気を取り直して自己紹介を続けた。
「……えー、篝咲月です!
体力には自信があります!柔道部に入ってます!
えと、こちらの春見ゼミを通して、祓を学び、少しでも多くの人たちを助けられるようになりたいです!
至らぬ点多々あるかと思いますが、頑張りますのでよろしくお願いします!」
カガリにパチパチと全員から拍手が送られる。
一人だけ、手を叩かない者がいた。その男はぼんやりと、どこともない空を見つめている。
その後三年、四年と順番に自己紹介をしていく。その度に拍手が沸く。つつがなく進行していく挨拶に、カスミは改めて声をかける。
「じゃあ次、アシヤくんね」
アシヤと呼ばれた男は脱力しきっており、座っているのか寝そべっているのかわからない体勢だった。
ずるりと体をおこし、机に肘をつく。
「……君の助ける人たちの中に、犯罪者は含まれるのか?」
カガリを指差し発した第一声。
彼女はあまりに唐突な問いに面食らう。
「……え?」
「君にとって助けるべき存在とはなんだ?」
「……えっと、困ってる人とか、傷ついて苦しんだり悲しんだりしてる人たちです」
「傷つけた相手はどうする?」
「懲らしめます。誰かを傷つけることはよくないことですから!」
「他者を傷つける者は悪と考えているんだな。ならば悪は淘汰されるべきか?」
「……傷つく人は、少ない方がいいです」
「……君は人を殺したいと思ったことがあるか?」
「……いえ」
「人を殺したいと思うことは悪か?」
「……良いことではありません」
「相手が大事な人を脅かす存在だったとしても?」
突然始まった怒涛の質問攻め。
カガリは勿論、誰も何もついていけていない。
それでもアシヤは話し続ける。
「例えば親。例えば恋人。その命が誰かの手で無残に奪われたとする。法は成人した人間と悪の属性を持つ妖……鬼や妖狐には厳格だ。だが未成年。そして善の属性を持つ妖……竜や白蛇が起こした天災や祟りに関しては非常に寛容だ。それでも大事な者を奪われたことに変わりはない。その時被害者が何を思うか……その憎悪は罪なのか?」
沈黙。
外は春の陽気だというのに、このゼミ室の空間だけ空気の温度が下がっているのがわかる。
「法は公平だ。同じ立場に関してはな。だが権力や存在の強さによって捻じ曲げることもできる。法で裁けない存在を裁くのは誰かわかるか?」
「……少なくとも、人や妖ではないはずです」
「それが裁けるんだよ、人は。その術(スベ)をもう持っている。ここにいる奴らはな」
アシヤは流暢に語り出す。
「僕たちはたくさんの目を持つことが必要だ。
相手の立場、思い、状況を鑑みて、己がどう行動すべきか冷静に考えなければならない。
祓はその力で妖と対等になることができる。人と妖を繋ぎ、時には彼らの裁判官として立つことすらできる。ただしそれで裁く相手を見誤ってはならない。
彼らは我々以上に義理を重んじる。公平性だけでなく、場合によっては忖度も必要だ。そこに明確な正しさなどない。あるのは彼らが決めたルールだけだ。
目の前の状況に気を取られ、誤った正義感で妖や人に干渉するのは、ただの愚か者、あるいは馬鹿だ。秒で祟り殺されるだろう」
ゼミ室はしん、と静まり返る。
誰もが、アシヤの言葉に面食らっている。……というか引いている。
カガリはショックを受けたというよりは、疑問で硬直していた。
この人は一体なんなんだろう?
どうして急にこんなことを話すのだろう?
私の自己紹介が気に障ったのだろうか?
そんな思考が巡る中、アシヤはとどめの一言を刺す。
「……お人好しは他所でやれってことだ。僕の話は難しかったかな?推薦入学くん」
かあっ、と顔が熱くなる。
カガリが言葉を発する前に勢いよく立ち上がったのは、眼鏡で癖毛の男子学生……四年の万城目知也(マキメトモヤ)だった。
「……もー!アシヤさんはすぐそうやって人をおちょくる!そういうとこ直した方がいいですよ!」
「そ、そうっスよ!シャワーでも浴びてスッキリしてきたらどうっスか?なんか、その、臭いますよ!」
癖毛の男子学生……三年の麻木透(アサギトオル)がそう言うと、アシヤと呼ばれた男は自分の臭いをすんすんと嗅ぐ。
「……あー、そういや三日前の依頼が終わって以降部屋から出てないんだった」
「ほらやっぱり!全くズボラなんですから……さっ!早く入ってきてください!ね!」
アシヤは男子学生たちに押されるようにゼミ室を出て行った。
足音が遠くなるのを確認して、柔和な表情の男子学生……宮本正樹(ミヤモトマサキ)がカガリを心配そうに見つめた。
「……ごめんねー、あの人いつもあんな感じなんだよ」
マキメも振り返って、困ったようにカガリに笑いかける。
「そうそう!ズボラだし、歯に衣着せない。あの人が居座ってるおかげでこのゼミ人気ないところあるから……。
ま、まあ気にしないで!」
カガリは怒涛の展開にしばらくぽかんとしていた。
「……下級生への洗礼ってやつだ。特にあの人はひねくれているからな。技術は確かだが言葉も手段も選ばない」
そう呟いたのは長身の男子学生、四年の古賀裕介(コガユウスケ)だった。
その言葉にアサギは乗っかり、言葉をまくしたてる。
「そうなんスよ!天才肌ってああいう人のことを言うんスかね?でもいくら祓が上手くたってあんなんじゃ近寄りたくないっスよね〜。あ、カガリっちは『陸陽の幽霊』って聞いたことないスか?」
「……え?ああ、有名ですよね。夜中の食堂とか廊下に現れるっていう……」
「それ、あのアシヤさんなんスよ」
「ええっ?」
カガリの驚きに呼応するようにカスミはうなずく。
「ほとんどここに住んでるようなものだからねえ、アシヤくんは」
「先生公認なんですか!?」
「まあ、家にいたらいたで学校来なくなっちゃうしね〜。気がついたら寝床も作ってあってびっくりしちゃったよ、ははは」
カガリは愕然とする。
そして、最初の自己紹介を上回らんばかりの大声で叫んだ。
「……なんなんですかあの人!!!!!」

―――

カガリの憤慨が落ち着くまで、十五分かかった。
カガリはまず勢いよくゼミ室を飛び出し、体育館までダッシュした。
次に部室の扉を開けると、そこには運悪く柔道部の後輩が一人いた。
後輩が「どうしたんすか?」と言い終わる前にカガリは「一試合付き合って!!」と叫び、私服のまま後輩を五回投げ飛ばした。
そしてそのままゼミ室にダッシュで戻ってきた。
息切れするカガリに、マキメはタオルを渡す。
「びっくりしたー……。帰っちゃったのかと思ったよ。いや、無理もないけどね?」
「すいません……もう大丈夫です……」
ミヤモトは椅子の背もたれに肘をかけ、のほほんと喋りかける。
「出会い頭にあれだけ言われたらしょうがないよ〜。カスミさんも止めればよかったのに〜」
「まあ、アレは君らも体験したことだろ?恒例行事かな、と思って」
「ひどい……」
マキメが呟く。
カスミはこの状況でも居住まいを崩さない。
こういったアクシデントは日常茶飯事なのか、はたまた何事も意に介さない豪胆な人間なのか。
ほとんど初対面のカガリには推し量りようがなかった。
「それに、言ってることは間違いじゃないからね。特殊な力を操る分、己の力量を見誤っちゃいけないと思ってるのは、僕も同じだよ」
カガリは汗を拭き、カスミの方を向いた。
「その祓の力って、どのようなものなんですか?
教科書にも載ってなかったんですけど……」
「うん、そうだね。その話もしなくちゃね。アシヤくんはいないけど、オリエンテーションを始めようか」
各々が元いた席に座り直し、授業は再開された。
……癖の強い男を除いて。

―――

「まず、このゼミで学ぶ術についてから。
一応”祓”って名前がついてる。といってもこうして名前がつけられたのも、認知され出したのも最近でね。つい十数年前からなんだ。カガリくんが知らないのも当然というわけだ」
コガが淡々と補足を差し込む。
「他のゼミで研究されてる”修験道”や”陰陽道”などの起源は何世紀以上も前。それらに比べたら非常に歴史が浅く、研究もほとんどされていない」
「そう。だからといって生まれたての技術というわけでもない。僕が独自に編み出したわけでもない。祓は、口伝によってひっそりと受け継がれてきたんだ」
「口伝……?記録されてこなかったんですか?」
「うん。なんせ特殊だからね。記録したくてもできなかったんだろう。まあ、見ればわかるよ」
カスミは立ち上がり、ホワイトボードに何やら奇妙な模様のようなものを書いた。
そしてカガリに尋ねる。
「これ、なんて読むかわかる?」
「え……文字なんですか?これが?」
「そうだよ。マキメくん、読んでごらん」
「は、はい!」
マキメも席を立ち、物が置かれていない広い場所に立った。
そして声を発した。
その声はどこから声を出しているのかわからない、不思議な音だった。
念仏のような、歌のような。
その時。
何もない空間に黒い切れ目が入った。
その切れ目は広がり、穴のようなもう一つの空間を作り出す。
そしてそこから出てきたのは……。
「やっほー!ようやくお呼びですかい!」
和服をアレンジしたようなあしらいの服。
男性とも女性ともつかないいでたち。
そして最も特徴的なのが、額に生えた角。
人の形をした何かが、何もない空間から突然現れたのだ。
カガリがぽかんと口を開けているのを見て、マキメたちはにやりと笑った。
「これが祓の術の一つ……詞だよ」

―――

空間から現れた角の生えた何かは、ひょこっとその場に降り立ち、いそいそとカガリの方に向き直る。
「どうもどうも、お初にお目にかかりやす!非常勤講師のサグメと申しやす。よろしくねぇ!」
「サグメさんはカスミさんと契約してる妖なんだ。このゼミに入った人は最初にサグメさんを呼び出せるようになるまでの過程で祓のコツを掴むんだよ」
マキメがそっと付け加える。
「カガリちゃん、ホワイトボードを見てごらん」
言われてカガリはカスミのいるホワイトボードに目をやる。すると……。
模様が消えている。消した跡もなく、そこには真っ白な画面だけがあった。
「あれ?!え!?」
混乱するカガリに、カスミは一つ一つ説明していく。
「祓で使う”詞”という言葉は、音と字が結びつくことで効果を発揮することができる。そして使われた字は効果を失うと同時に消滅する。……まあ、字を書いてから音を結びつけるやり方は特別なやり方なんだけどね」
カスミはそう言うと自分の頭を人差し指で指す。
「大事なのは頭の中で想像することだ。自分の思考、意思を脳内で形作る。それがここでいう”字”だ。その字を詞特有の言葉に置き換えることで、詞としての力を発揮することができるというわけだ」
「ほぁー……」
理解できているようなできていないような表情のカガリ。ミヤモトがそっと耳打ちする。
「えっとねー、さっき書いてあった文字は、サグメさんを呼び出すための”字”だったんだよ〜。それをマキメ先輩が音と結びつけたことで、サグメさんが出てきたってこと〜」
「ああ!なるほど!……って、なんかすごいんですね詞って!?遠くにいても伝わるってことなんですか!?」
「そうそう。ただ、相手と縁が繋がっていればだけどね。それに、そこまで万能ってわけでもなくて、これは”妖”にしか伝わらないんだ」
「えっと……ということは、人はもちろん、人や動物の死後の魂にも使えないってことですか?」
この世で生きる者……人や動物の魂と、人や動物ならざる者……妖の魂は性質が異なる。界隈の者は”現世の幽霊”と”常世の幽霊”という風に呼び分けている。
「その通りっス!でも使えるようになったら便利っスよ!その辺にいる目に見えないレベルの低級な妖を使って物を動かしたりできるんスから!」
「それをできるのはカスミさんかアシヤさんぐらいだがな」
「っスね……」
「だから、妖以外の万物にも対応できる術と詞の総称が”祓”というわけだ。……ただ、このゼミで学ぶほとんどは詞になるだろうな」
「詞だけでも充分応用が効くからね。あとは、一人一人に合わせて使いやすそうな術を教えていく感じかな」
カガリは「なるほど……」と呟き、考え込んだ。
祓の術のうちの一つ、詞。
アシヤが言っていたのは、これのことなのだろうか。
人と妖を繋ぐ術。妖を裁くことすらできる術。
その奥深き世界の入り口に立ったばかりのカガリは、その術がどのようなものなのか全く掴めずにいた。
ぐっ、と拳を握り、顔を上げカスミを見た。
にこやかなその目からは真意を掴むことは到底できそうにない。ちょうどカガリが学ぼうとしているもののように。
「……やってみます。これから、よろしくお願いします!」

―――

「よし、じゃあここからは僕の出番かな!」
横で聞いていたサグメがスッとホワイトボードの前に立つ。
「早速だけど、今日は祓を使うための声の出し方と、簡単な詞の実践をやってみよう!一個だけでも使えるようになってから帰ろうね〜」
「はい!」
カスミもゆっくりと立ち上がる。
「じゃあ三、四年生はこっちで結界の演習をやってもらおうかな。春休みの自主練の結果を見せてね」
そう言われた上級生たちはぞろぞろと部屋を移動する。とはいえパーテーションで区切られているだけの大部屋なので、お互いの様子は丸見えである。
「よーし、カガリちゃんだっけ?今年はマンツーマンだから教えやすいね!張り切って行きやしょう!」
「よろしくお願いします!!あ、そうだ!聞きたいことがあって」
「ん?なんだい?」
「私、人より霊力が少ないみたいで、霊感の強い友達に比べると浮遊霊とか小さな妖が見えないんですが、それでも詞って使えるようになりますか?」
「うん!この大学にも霊力が少ない人って結構多いし、マキメくんも元々霊力がそんなになかったんだけど、妖や術に触れてるうちにだんだん身体が追いついてきて、あそこまで使えるようになったんでやす。だから最初はなかなか慣れないと思うけど、頑張りやしょう!」
その言葉を聞いて、カガリの表情が和らぐ。
「そうなんですね……!わかりました!」
「うん!えーと、まずは詞の簡単な解説をしやしょうか。この言葉の語源は、元々妖しか使ってなかった”古妖語”なんでさぁ。
人間でいうと平安時代あたりの古語でやすね。んで、古妖語も口語と文語……話し言葉と書き言葉という風に分かれてるんでやすよ」
「ああ……”何々である”みたいなのは書き言葉、”何々だよね”とかは話し言葉、ですよね?」
「そうそう!さっき言ってた話し言葉が音、書き言葉が字、って感じでやす。
それで、古語は現代じゃほぼ使われてないし、昔の話し言葉で今話しても伝わらない。書き言葉も然りでやす。
でも、古妖語はそうでもないんでやすよ。音と形は違うけど、意味は伝わる。
もちろん、妖共通語なんで人には伝わらないでやす。イルカの言葉みたく音の出し方も違うんで、そもそも人が話すこともできないんでやすが……。
それを分析して、人間の声帯で出せる音に翻訳したものが”詞”なんでやす!
きっと昔、妖と心を通わすことができた人が作ったんでやしょう。そのへんはまだまだ研究が進んでやせんけど……」
「なるほど、それであんな不思議な音なんですね!」
「仏教でいう念仏、海外だと魔術でやすね。仏様のお力をお借りするわけではないんで、魔術が一番近いでやすかね?詞は体内にある霊力を使うことで力を発揮するんでやすよ。
詞の単語には大まかな属性もあって、五行説に則って木、火、土、金、水に分かれてやす。この辺は説明が難しくて……うーん!今一気に話しても難しいでやしょう!」
サグメは少し悩み、まずは実践あるのみとホワイトボードを引き寄せた。
「ってなわけで、始めやしょっか!そんじゃ、まずはこの文字から……」
サグメは詞特有の奇妙な文字を二十個ほど書いていった。文字は一種類につき二つ書かれており、一つは見本、もう一つはカガリがうまく発声できたら自然に消えるという寸法である。
それらの字は平仮名のようなもので、字単体に効果はないという。簡単かつわかりやすい発声練習法だった。しかし……。
「うーん……」
「大丈夫大丈夫!これぐらいならよくあることでさぁ!」
「……」
「……んー?もう少しお腹の力を抜いて……」
「……」
「……」
「…………」
「…………」
三十分ほどたった後、二人は沈黙していた。
そして、先に口を開いたのはサグメであった。
「……すげぇね!?一文字も消えないんだけど!?」
その言葉を聞いて、カガリはガックリとうなだれた。
「こ、こんなに難しいんですね……」
「いやいやいや、僕ぁ日本生まれ日本育ちなんで、音も字も日本訛りだし大抵の人は発声だけはできるようになるもんなんですぜ!?
ちょいと念仏っぽく、呻くような感じで声を出したら、まずどこかしらは消えるんだけどねぇ……??」
「そんなあ……」
思わずくしゃりと顔を歪めるカガリを見て、慌ててサグメがフォローする。
「……ま、まぁ最初だし、霊力も少ない体質なら仕方ねぇですわ!もうちょっとやってみやしょう!」
「は、はい……!」
「大丈夫、まだ講義は始まったばかりでさぁ!お昼までもうちょい頑張ってみやしょう!」
二人きりながらもわいわいと授業をしているカガリたちを、四年生のコガとマキメは順番待ちがてらこっそりとのぞき見ていた。
「コガくん、アレってもしかして……」
「ああ、アシヤさんが前言ってたやつだろうな」
「うう、そうだとしたらカガリちゃん、気の毒だなぁ……」
「何事も向き不向きがある。仕方ないことだ」
二人はカガリたちに聞こえないよう、声を潜めて話している。これからの彼女の運命を憂うように。
「それはそうだけどさ、あんだけ張り切ってたのにね……」
そう言ってマキメはため息を漏らす。
「あの発声練習で祓の資質がわかるんだから、残酷というか、早くわかるだけマシというか……」

―――

昼休憩を終え、サグメとカガリは再び向き直った。
「……よし!やりやすか!」
「はい!お願いします!」
目の前には、午前中と全く変わらない状態のホワイトボード。
通りがかりにそれを見たカスミは「そうか……」と口にしたきり、どこかに行ってしまった。
上級生は発表が終わったため、机を並べ直して自習している。研究書を読んだり、新しい術の練習をしたり、内容は様々だ。アサギに至っては机でよだれを垂らして寝ている。
パーテーションを隔ててはいるものの、隣で静かに勉強している先輩の横で、うまくいかない発声練習に勤しむというのは、言い得ぬ辛さがあった。
小学生の頃、給食に唯一苦手なアスパラが出たとき、初めて掃除時間まで居残りさせられた当時を、カガリは思い出していた。
声出しを続けるカガリたちの横で、ミヤモトは隣のマキメとひそひそ話を始めた。
「頑張ってますね〜、カガリちゃん」
「うん、こんだけやってるんだから流石に報われてほしいよね……」
「アサギくんも手こずってましたけど、午前中までにはなんとか半分消えてましたからね〜……」
「ゼミ史上初かもしれないね……」
その途端。
バァン!!と音を立ててゼミ室の扉が開いた。
びくりとして全員が静まり返る。アサギもぎょっとして目を覚ました。
扉の所には、シャワーを浴びてくせ毛がよりフワフワになったアシヤがいた。その顔には不機嫌が張り付いていた。
「ごにょごにょむにゃむにゃうるせえぞ!!下手くそが!!!」
マキメが恐る恐る尋ねる。
「あ、アシヤさん、いつからそこに……」
「五分前だ!入口前で練習するな!入りづらいだろうが!」
そう言った割にずかずかと入り込んだアシヤは、窓際の年季の入ったソファに勢いよく飛び込んだ。
「こっちは寝不足なんだよ!他所でやれよな!」
「そんなこと……!」
取りなそうとしたマキメの前に、カガリは一歩踏み込んだ。
「ここはゼミ室です。ゼミのみんなが使う場所です。勝手に自分の所有物にしないでください」
アシヤは半目でカガリをちらりと見てから、ごろんと背もたれに顔を埋めた。
「……そういうことは一つでも詞が読めるようになってから言え。発声もろくにできない不器量な奴はここにいたって時間の無駄だ」
マキメはおろおろと二人を見た。カガリはアシヤの方を向いており、どのような表情をしているのかわからない。
「そんなのやってみないとわからないじゃないですか」
「いいや、わかるね。現に今できていないだろう」
「今できなくてもいつかできるようになります」
「いつかっていつだ?何日もやるようなことじゃないぞ。お前はもう既に遅れをとっているどころかスタート地点にすら立てていない」
「勝手に決めつけないでください!」
「僕が決めているんじゃない、お前自身の素質そのものが物語っているんだ。カスミさんたちが言わないなら僕が言ってやろうか?」
アシヤは音もなく立ち上がると一瞬でカガリの目の前に立ちはだかった。
その背はカガリよりも頭ひとつ大きく、その目はカガリの小さな顔を見下していた。
「こらアシヤ!」
止めるサグメを無視してアシヤは話し続ける。
「その発声方法は練習も兼ねているが、実際は祓の資質を見るものだ。最初に消えた字、消えやすい字、消えにくい字で相手の得意不得意を判別するのさ。だがお前はどうだ?」
アシヤはホワイトボードに歩み寄り、バン!と掌で羅列された文字を叩いた。文字は浮かび上がり、ひらひらとカガリの周りを舞って落ちる。
「一文字も消えない。これはお前に祓の素質どころか、祓に使うための霊力を全く持っていないという意味だ。詞が読めなければ祓なぞ学べるわけがない。だから時間の無駄だと言ったんだ」
アシヤは再びカガリの方を見る。その目は激しい拒絶の色をしていた。
「真人間に祓を学ぶ資格はない。今からでもいい。修験道のゼミにでも行くんだな」
そう言うと、さっさとカガリの前を横切り、再びソファに寝転んだ。背もたれの方を向き、数秒で寝息を立て始めた。これ以上話すつもりはないようだ。
沈黙。
目の奥を刺すような、心臓を握られているような、居た堪れない沈黙だった。
それを破ったのは、ドアも閉めずに勢いよく駆け出していったカガリの足音だった。
「カガリちゃん!」
慌てて後を追うサグメ。
「カガリちゃ……ん……」
段々と弱々しくなる声と共に、うなだれるマキメ。
ミヤモトも悲しそうな顔をしている。
アサギは状況をうまく飲み込めていないが、空気を読んで小声で声をかけた。
「ヤバかったスね今の」
「うん……カガリちゃん、泣いてた」
「しょうがないですよ〜、初めてのことなのにあんな剣幕でボロクソ言われちゃったら〜……」
「てかあんなアシヤさん滅多に見たことないっスよ?むっちゃ怖かったっス」
「確かに、初対面の女の子相手にあそこまで言うなんて……」
「女の子、だからだろうな」
コガがぽつりと呟いた。
「女性は元々妖に惹かれやすい。故にあっち側に引き込まれることが多い。だが霊力がなければそのことにも気づけない。自分が危険な道を進んでいるかどうかすらもわからない。祓は特に妖と密接な関係になることも多いし、厄介ごとを防ぐには自身の霊力がなければ難しい。ミヤモトたちも、危ない目にあったことはあるだろう?」
三年二人は下を向く。思い当たる節は多かった。
「だから早めに違う道を進んで欲しかったんだろう。カガリは意志が強そうだったから、言葉もきつくなったのかもしれない」
コガは読んでいた本にしおりを挟み、パタンと閉じた。
「……好意的に考えればな」
そう言い残して去っていった。
「……まあ、あのアシヤさんっスからね……」
「そうだね〜……あのアシヤさんだもんね〜……」
「二人とも……言いたいことはわかるけど……」
重い空気につられてどんよりとする三人。
ふと、マキメは思い立つ。
ゼミに入る前には、一年の冬に希望届を出す。
そのためにゼミ室を見学したり、教授との面談が行われることを思い出したのだ。
アシヤは去年の秋以降はほとんどゼミ室にいなかったので、見学の時にいなかった可能性は高い。
しかしカガリとカスミは、少なくとも一度は面談をしたことがあるはずだ。
「……カスミさんは、なんでカガリちゃんを引き入れたんだろう?」

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