第一部『河童』承

その後、奥方はこの二日間宿泊する部屋を案内してくれた。

アシヤは客室で、カガリは奥方と同室で寝ることになった。そして奥方は昼食の準備のため、挨拶をして去っていった。

客室に残された二人は、しばらく沈黙を保っていたが、数分してカガリが耐えきれず口を開いた。

「……どうかしたんですか、アシヤさん?」

「どうしたもこうしたもないだろう!カスミさんめ、やっぱりこうなることを見越して僕らに仕事を押し付けたんだ!課外授業にかこつけて!露骨に怪しすぎると思ったよ!何が納涼だ!外はすこぶる暑いし!」

アシヤは苦虫を噛み潰したような顔で恨み言を吐き散らした。カガリはその姿をもう何度となく見ているため、火に油を注ぐことになると知りながら、いつものように宥めた。

「まあまあ、蜘蛛の糸にかかったのはアシヤさんじゃないですかぁ。それに、放っておけませんよこんなこと!なんせ人の命がかかってるんですから!」

「この善意の塊もついてきたのが厄介だ! 話がややこしくなる!」

「誰が善意の塊ですか!テレるじゃないですか!」

「単細胞花畑とでも言い換えてやろうか?このお人好しが!二つ返事で了解しやがって!仕事すんのは僕なんだからな!」

「もちろんお手伝いしますよ!それに、目の前で困ってる人がいたら助けるのが私の信条ですからね!アシヤさんがやらないと言っても私がやります!」

カガリはアシヤの機嫌に臆することなく胸を張る。アシヤはそれを見てますます人相が凶悪になっていく。

「その信条とやらに他人を巻き込むのはいい加減やめてもらいたいがね!いいから余計なことはするなよ!お前に仕事させたら山一つ吹き飛びかねんからな!」

アシヤはそう吐き捨て自分の身支度を始めた。

カガリは今年の春から祓の術を学び始めたばかりだ。一朝一夕で身につく術ではないとはいえ、その迷走っぷりはカスミもこめかみを押さえるレベルだった。

狙ったところに当たらない、詞の読み方を間違える、そもそも詞が読めない。

大学屋外にて、祓を使って紙飛行機の軌道を変えるという実践授業をしたときには、軌道を大いに逸らし、遥か遠くで歩いていた教育学部長のカツラを勢いよく吹き飛ばした。アシヤはその光景の始終を見て抱腹絶倒の大笑い、そして学部長の怒りを買い単位を一つ落とした。

……そんなわけで、カガリは校外での祓の使用は非常に限られている。アシヤもカガリの技術に関しては全く信用していない。

しかし、アシヤを苛立たせる原因はもっと別のところにある。

「……再三言ってるがな、恨みも恩も同じ『業(ゴウ)』だ。奥さんの頼みを聞いてやったとして、何も起こらないとは限らないんだからな」

業。

人と人、人と妖が干渉し合った際に生まれるもの。

自業自得、因果応報、自縄自縛。

自らの行いは必ずなんらかの形で返ってくるものだ。それは徳であり、罪である。

助けた者が殺人鬼だとしたら、それは善か。不治の病に喘ぎ苦しむ者を介錯するとしたら、それは悪か。それを決めるのは、人ではない。全ては業のなすがまま。人を裁く術が法ならば、この世に生きる全ての存在全てを裁くのは業である。

……それが、今までの経験から得たアシヤの考えだった。

「……いたずらに人の頼みなんか聞くもんじゃない。その結果起こることに僕たちは責任なんか持てないんだ。だから僕は……」

カガリはアシヤの背中を見た。背丈は比較的高いにもかかわらずその背中は丸く、本来より一回り小さく見えた。年齢。性別。家族構成。経歴。それらが積み重なって構築される価値観。アシヤとカガリは、その全てが正反対と言っていいほどに異なっている。故に彼らはしばしば衝突する。

どれだけ想いを伝えても、どれだけ意見を重ねても、お互いが歩み寄ることができないほどに、溝は深かった。共感されたいわけでも、同情されたいわけでもない。ただお互いがそうであることを認められないのだ。認めてしまえば、己が積み重ねてきた全てが崩れてしまうから。

……それでも。この溝から逃げてはならない。そう、カガリは思うのだ。

「……だから、『なるべく他人の人生に関わりたくない』ですよね?」

カガリはアシヤの背中に一歩近づく。

「大丈夫ですよ。それでも良いことをすれば良いこととして、悪いことをすれば悪いこととして返ってくることには変わりありません」

『人事を尽くして天命を待つ』カガリの座右の銘だ。どんなに辛いことがこれから起きるとしても、行動せずに後悔するより行動して後悔したい。カガリは、未来の結果よりも、目の前にいる者の心を信じていたいのだ。

「……それに、アシヤさんは敏腕祓師ですしね!自分の選択を信じましょうよ!『信じる者は救われる』ですよ!……私、真緒さんを手伝ってきます!」

カガリはぱたぱたと廊下を走っていった。アシヤはそれを横目で見やる。

カガリの背中は夏の日差しに照らされ、目が霞むほど白く見えた。背中を丸めた男は自分の手に目を落とす。日向に目が眩んだのか、陰の中にある手はどす黒く汚れているように見えた。男は誰に語りかけるでもなく呟く。

「他人にとっての幸不幸も、僕たちが推し量ることはできない。それこそ……『死が救い』になったりしてな」

***

奥方の作った昼食は、簡素ながらも質が良く、品の良い味だった。カガリと奥方は先ほどの話など嘘のように、会話に花開かせていた。それは心配させまいとする、カガリの気遣いでもあった。しかしアシヤは会話にほとんど加わることなく、黙々と食事を進めていた。

カガリが茶碗についた最後の米粒を口に運んだとき、アシヤはぽつりと呟いた。

「では、レポートの資料収集に行ってきます。村の地図はありますか?」

奥方は「はい、こちらに」となんの疑いもなく答えたが、カガリはわかっていた。アシヤは基本、自分の行動を相手に明かす性格ではないことを。そして、アシヤが生真面目に課題をやる人間ではないことを。

地図をもらいに席を立ったアシヤは、近くにあったチラシに目を止めた。

「……これも一枚貰ってもいいですか?」

「え?ああ、いいですよ。このイベントも、けっこう盛り上がるんですよ。御霊会とは関係ないですけど……」

「いえ、ありがとうございます。では行ってきます」

アシヤが一人で外に出ようとするのを見て、カガリは慌てて席を立った。

「あ、私も行ってきます!えと、レポート書きに!」

「はい、行ってらっしゃいませ」

奥方は二人の姿を微笑んで見送った。

***

澄田家の門前。日は高く、湿り気を帯びた熱気が体をつきまとう。二人は滲む汗を拭きながら門の外へと踏み出した。

アシヤは釈然としない顔でカガリの方をちらと見る。

「……君はついてこなくてもよかったんだがね」

「何言ってんですか!これも課外授業の一環ですよ!」

「物は言いようだなあ」

「またまたー!隠さなくたってわかりますよ!真緒さんの異変について調べるんでしょ?どこから調べるんですかっ?」

そわつくカガリをあしらいながら、アシヤは腕を組み、黙っていた。先程の奥方の話を思い返しているようだ。

「……真緒さんに異変が起きたきっかけは『河原で遊ぶと人が一人増える』という噂を聞いてから。それに『河原』の話をした時の奥さんのあの反応……。調べないわけにはいかないな」

「河原に行くんですか?でも関係者以外立ち入り禁止って……」

「なればいいじゃないか。関係者に」

「えぇ?」

「あんだけでかい川だ、おそらく管理人がいるだろう。それに……」

アシヤは先程手に入れたチラシを横目で見た。カガリが覗こうとしたが、同じタイミングで鞄にしまわれてしまった。

「……まぁ、そいつと話をつければ、河原を調べることができる」

「なるほど、全うですね。アシヤさんのことだから、こっそり忍び込むのかと思っちゃいましたよ!」

「何言ってんだ、人聞きの悪い。神主がいる地のテリトリーは、下手に荒らすことはできない。『郷に入れば郷に従え』ってやつだ」

そう言い終わらないうちに、アシヤはすたすたと歩き出した。

「へえー。あ、待ってくださいよー!」

***

河原の水は、遠目でわかるほど澄んでおり、夏の日差しをキラキラと反射しながら流れていた。

「わあー!綺麗!魚釣りしたくなりますねえ!」

「いるぞ、そこに。魚」

アシヤは遠くを指差した。

「え!どこどこ?」

カガリがアシヤの指差す方向に向かって近づくと……。

バチィッ!

青白い閃光が一瞬放たれ、カガリは思わず尻餅をついた。

「いたぁーっ!なんですかこれ!」

「ふむ、ここまでが立ち入り禁止か。やはり軽い結界も張ってあるな」

「ひどい!私を実験台にしないでくださいよ!」

「たいしたことないだろ、これぐらい。子供がふざけて入ろうとしても大丈夫な安心設計だ。さて、管理人は……」

アシヤが辺りを見回す。小屋が一軒ある以外、特に気になるものはない。

……よく見ると、小屋の中から一人、老人が出てきた。

「……」

「こんにちは!」

「……」

老人はこちらをちらりと見やり、アシヤたちとは反対方向に歩き出した。

「あれ、どっか行っちゃった……」

「ガードが固い爺さんだな。よし、お前。あのご老体を投げてこい」

一瞬の沈黙。

それは速攻で破られる。

「えぇ!?何血迷ったこと言ってんですか!」

「簡単だろう。お前なら」

「そういう問題じゃないですよ!嫌ですよ完全にやばい人になっちゃうじゃないですか!」

「大丈夫だって。なんとかなるって。純真無垢なこの僕の言うことを信じなさい」

そう言ってアシヤはとんと自身の胸板を拳で軽く叩いた。

「あからさまに心にもないことを……!嫌です!どうせまた痛い目に合うんでしょ!」

断固拒否の姿勢を取るカガリを見て、アシヤは大仰な動作で両手を上げ、やれやれと息をついた。

「……全く、しょうがないなあ。そんなお前に魔法の呪文を唱えてやろう」

そう言うと、二人の周りを静けさが包んだ。カガリは何か言われるのかと身構える。しかし何も起こらない。五秒ほど経ってからアシヤを見ると、彼は黙っているのではなく、息を吸い込んでいると言うことに気がついた。そして。

「たのもーーーー!!!!!」

村中に響き渡らんとする大声。蝉は鳴くのを止め、木々に止まっていた鳥達がバサバサと飛び立つ音が聞こえた。山彦が反響し、それが止むまでカガリの耳鳴りは治まらなかった。

「……び、びっくりしたぁ……。アシヤさんなんの脈絡もなくこういうことするの今度からなしにしましょうよ〜。……ん?」

ふと見ると、先ほどの老人が走って来ている。砂煙を上げんばかりの凄まじい勢いだ。その目は完全にアシヤ達を捕らえていた。

「わわわ……!」

向かって来た老人を、アシヤは紙一重でひらりとかわす。

老人は勢いを殺さぬまま、即座に標的をカガリに変えて向かってくる。

「う、ぅわぁぁぁーっ!!」

カガリの恐怖の叫びが、一面の緑にこだました。

***

一瞬の出来事だった。

石尽くめの床に倒れている人間が一人。

突っ伏しているため、アシヤたちの目から表情を読み取ることはできない。アシヤ以外、今現在の状況を理解している者はいなかった。

「……なんで?」

そう呟き、倒れている人間を見下ろしたのは、カガリ。

そう、倒されたのは老人だった。

数十秒前。老人がカガリに掴みかかろうとした刹那。

カガリは老人のウィークポイントを即座に見抜き、流れるような早技で巴投げを繰り出したのだ。投げ技はカガリの得意技。まっすぐ向かってくる相手に負けることはまずないのだった。

「一体何が起きたんですか?説明してくださいアシヤさん!」

アシヤは現状がさも当たり前のように、涼しげな顔をして立っている。

「……河童は相撲が好きなんだ。『頼もう』と叫ばれたら応じずにはいられないのさ」

「はぁ……?」

「ここにかつて河童がいたのなら、相撲の文化も根付いているはずだ。朝、澄田家にちびっこ相撲大会のポスターが置いてあった。子供らに配るためだろう。今年で百六十五回か……すごいな。今でこそ人が減ってその文化は薄れているかもわからんが、年配の方なら大体通じるはずだ」

「……つまり、ここには河童と相撲の文化があるから、勝負を挑めば向こうから来てくれると思った……ってことですか?!ほんとに突拍子がないですね!」

「突拍子?なきにしもあらずさ。見ろ、この人は相撲大会の運営者だぞ?血の気が多いに決まってる。ほら、ここに顔写真が載ってるだろ」

見ると、チラシにはコメントと共に顔写真が載っていた。

運営者から一言相撲とは、魂と魂のぶつかり合いです。

大事なのは絶対に負けない心です。

特訓ならいつでもつきあうからな!

××川管理人 道長雄三

「うぅ……」

老人がゆっくりと起き上がった。

その顔は、チラシの顔写真と同じだった。

それを見てカガリはハッとして老人に駆け寄る。

「すみません!大丈夫ですか!?」

「……いやあ、あまりの威勢のいい声に思わず飛んできたが……まさかこんな小さなおなごに投げられるとは。わしも老いぼれたなあ……」

「……」

カガリは不服そうな目でアシヤを見つめた。言いたいことは山ほどあるが、それを一つ一つ聞いて説明してくれるようなアシヤではないだろう。それでもカガリは言わずにはいられなかった。

「こんなのアリなんですか……!?そりゃ私もすごい勢いで掴みかかられたからつい投げちゃったけど……!」

アシヤは老人……もとい管理人の腕を掴み、ひょいと引っ張り上げた。

「まあ、そんな目で見るな。これで河原には入れるようになったからさ」

「……え?そうなんですか?」

立ち上がった老人は、足元を払いながらもニコニコしている。

「ああ。こうも力の差を見せつけられてしまってはなあ!」

「縁を結んでしまえばこっちのもんさ。めでたく僕たちはここの関係者となったわけだ」

「……どういうことですか……?」

「それはさっきの場所を通ればわかる」

アシヤがするりとカガリの前を抜け、先程閃光が走った場所を通る。カガリはつい一瞬身を固める。

……だが、何も起こらなかった。

「……なんともない?」

「さっきお前がぶち当たったときに結界の種類は見当がついた。『関係者以外立ち入り禁止』という言霊を利用して、管理人が部外者との関わりを断つことで結界を張っていた。だからガードの緩そうな“関係者”と縁を結べば、“関係者”の“関係者”となり、入れるようになるってわけだ」

「ここら一帯は結構広いからな。結界を破られないようにするには、どうしても一人番をする奴が必要だった。わしはもう身寄りもいないから、適任だったわけだ。御霊会までは結界を破られないように、誰とも口を聞かないよう言われていたんだ。それでもいたずら坊主や、他所の学生たちがわしにちょっかいをかけてくることもある。黙って片っ端からぶん投げてやったら、すぐに逃げていったがな。……しかしまさか、わしが投げられるとは!相撲じゃ負けなしだったのになあ!世の中は広いなあ!わはは!」

管理人が笑いながらアシヤの言葉に補足を加えた。カガリがあまりに何も理解できてないという表情をしていたからだろう。ようやく、無理やり状況を呑み込んだカガリは、ハッとした。

「……神主さん!神主さんだって関係者ですよ!結界を張ったのも神主さんでしょう?お話すれば通してくれたんじゃないんですか?」

「どうだかね〜。今日村に来てから一度も顔を見ていない。奥さんは準備に出かけてるって言ってたけど、当日まで会えないだろう。神聖な儀式に、穢れはご法度だからな。……さて、中を調べるか……」

「……アシヤさん!」

「なんだよ」

アシヤはのっそり振り返った。この人間と出会って数ヶ月。様々な出来事を通して、彼がどのような人間なのか理解しつつあると、カガリは思っていた。それでもいまだに、彼の言動の意図がわからなくなることは多い。

「もっとこう……穏便なやり方ではなんとかならなかったのでしょうか?なんだかこれってすごく強引だと思うんですけど……」

「……」

アシヤは斜め下に目をやり、少し考えているようだった。カガリはその顔から彼が何を思っているのか推し量ることはできなかった。

「……妖のいる世界に人間の常識は通用しない。一年の授業で口酸っぱく言われなかったか?君は”そっちの世界”にとっくに足を踏み入れてるんだ。もっと自覚を持った方がいい」

アシヤはスッと河原の方へ歩いて行った。砂利道だというのに、足音はしなかった。カガリは離れていく距離に、アシヤの心に隔てられた厚い壁を感じながら、ぼんやりと呟く。

「……やっぱりこんな感じになるのかあ……」

***

河原は広く、流れている川も向こう岸に渡るには少し深かった。

ただ、建物もなく開けているため少し見回せば何があるかはすぐにわかった。しかし……。

「……見た感じ、変わったところはないですね」

「ああ。だが……」

「?」

「慰霊碑がないな。地図によると河原付近にあるはずだが」

「ここは中流ですから、もっと上流か、下流の方にあるのかもしれませんね!」

「ふむ。どちらから探すか……」

「上流から行きましょう!記念碑って大体山の上にあるイメージですし!」

「記念碑じゃなくて慰霊碑な。まあ可能性はなくはないな。だが山の上……か」

アシヤは面倒くさそうにカガリを見る。賛成したのは彼だというのに。

「何こっち見てんですか!登りたくなくても我慢してくださいよ!私じゃ妖がいるかどうかもわかんないんですから……」

「……ちっ」

「ほらほら行きますよー!なんならおぶって行きましょうか?」

「却下。誰がお前の手なんか借りるか。ったく……」

アシヤとカガリは川沿いに山を登っていく。想像していたより勾配はなだらかで、スムーズに登っていくことができた。

***

上流付近にて。

川の水はより澄み、小魚が群れをなして泳いでいるのを視認できるほどだった。

遠くには勢いよく音を立てて水を打つ滝が見える。その途中、探し物は見つかった。

「……祠はこれだな」

簡易的ながらもきちんと供えられた腰ほどの丈のある石碑と、そこに繋がる木造の門があった。石碑は地面に接している箇所は苔むしており、経年変化により土のように色褪せていた。しかし手入れされているのか、目立つ汚れはなかった。

「いろいろお供えしてありますねー!」

「きゅうりに鮎、スイカに桃……か。好物は通俗的な河童と変わらないみたいだな」

「河童が祟るなんて、不思議な話ですよね。村の人だったら昔のお話も聞かせてくれるかも……。……アシヤさん?」

祠の門の前に立ったアシヤは、顔から血の気が引き、険しい表情をしていた。

「……神主は、このような状態で何も感じなかったのか?」

「どうかしたんですか?顔真っ青ですよ……?」

アシヤは素早くカガリの前に腕を出した。

「下がれ。門に入ると当てられるぞ」

カガリの顔も蒼ざめる。

「ひょっとして……いるんですか?河童の幽霊……」

「ああ。しかもかなりご乱心のようだ。誰だよ……こんな所にのこのこと供え物をしたやつは……。うっ!」

アシヤは手で口を覆った。気分が悪くなるほどの瘴気らしい。

「とりあえず離れましょう!よくわかんないけど嫌な予感がします……!」

そのとき、凄まじい勢いで小さな“何か”が飛んできた。

方向は、アシヤを向いている。

「危ない!」

カガリはとっさに手を出し、それを受け止めた。

「!」

「いた……っ!」

受け止めた手を開くと、尖った石だった。

途端手の平から血が流れ出し、河原の石に点々と赤が付いた。

「……降りるぞ。どうやら奥さんの言っていたことは間違いじゃあなさそうだ」

***

川を降りると、管理人がいた。管理人には川の石の中に割れたガラスが混じっていて、それを触って切ってしまった、と伝えた。

そのまま伝えれば騒ぎが大きくなってしまい、調査が進まなくなることを恐れての行動だった。小屋にあった救急箱で手当てをしていると、管理人が口を開いた。

「……災難だったな。最近は河原の手入れもままならんから、何処かから流れてきたガラスもそのままになっとるんだろう。あとで探して回収しておくよ」

「……ここって、やっぱり、出るんですか?」

「ああ、あんたらも子供の噂を聞いたのか。所詮噂は噂だ。子供の悪戯だと思っているよ。しかし、それで御霊会が妨害されてしまってはかなわんからな。こうして番をしているというわけだ」

「大事な行事なんですね……」

「ああ。幽霊とか呪いとか、そういう話は詳しくないんだが、御霊会は別だ。ワシが子供のころに死人が出たからな」

「し、死人?」

管理人はしまったという顔をした。久々に人と会話したからか、不要なことまで喋ってしまったと思ったようだ。しかし口に出してしまった手前、そこには話の続きを知りたがっている二人がいる。管理人は恐る恐る話し始めた。

「普通の死者なら単なる偶然だと思ったんだがな。

原因が河童の仕業としか思えなかったんだよ。しかも数が多かった。

七人だ。七人、同じ死に方をした。

御霊会当日、そいつらがいないことに気づいた村の奴らが、探しにいったんだそうだ。

七人の中には、神主関係の人間もいたからな。そいつらはすぐに見つかったよ。相当目立つ所にいたからな。

誰も行けやしない上流の木の枝に、そいつらはぶら下がっていた。俺は親にすぐ目を隠されたのと、逆光とで人っぽい影としか認識できなかったが、あの光景は忘れやしない。

滝を背後に七つの大きな影が、蓑虫みたいにゆらゆらと揺れてんだ。気味悪かったなあ…。

無論、村は大騒ぎでさ。御霊会どころじゃなかったんだけど、御霊会をしなけりゃもっとひどくなると踏んだ当時の神主…流ノ介の父さんが、特別な儀式をしたらしい。

それでその年はなんとか収まったらしく、来年以降も被害は出なかった。おっかなくて、それ以降俺は御霊会だけは毎年ちゃんとやろうって決めてんだ」

「……」

凍りつくカガリを尻目に、ずっと黙っていたアシヤが口を開いた。

「……因みに、死因はなんだったんですか?」

「ああ……窒息死さ。絞殺ってやつかねえ……」

「こ、絞殺!?」

カガリは思わず立ち上がろうとした。

アシヤはそのカガリの肩に手刀を喰らわせ、無理矢理座らせた。

「あ、ああ……。全員、首元に長い指のような鬱血した跡が六本付いてたんだと。変だよな、六本って。人の指なら十本だろうに。やっぱりあれは河童だったのかなあ……」

「……その年、何があったんですか?」

「……確か。御霊会の一週間ほど前だったか。あの川に、子供が流されたんだ。まだよちよち歩きの赤子が。当時は雨も降っていて流れも早く、遺体が見つかったのは御霊会の三日後だった。赤子の母親は、気が抜けたように呆然としていたが、その後御霊会の日に七人の仲間入りをしちまった。赤子が河童を呼んだんだって、村の奴らは言っていた。しかしなぜ、七人も亡くなったのかは分からずじまいだった。死人に口無しだから、な」

二人は顔を見合わせた。奥方の状況とよく似た死者。河童の祟り。赤子の死。何か関係があるのだろうか。

「……お話しいただき、ありがとうございました。そろそろ、澄田さんのお宅に戻ります」

そう言って、アシヤは立ち上がった。知りたいことは全て把握したかのように。

「そうだ!あんたら、御霊会について調べてんだろ?なら役場に行くといい。昔の資料はそっちで保管されてるはずだ」

「!……助かります」

「なあに。こんなへんぴな村にわざわざ研究に来るやつなんか滅多にいないからな。色々見せてくれるだろうよ。嬢ちゃん、次は負けんからな!」

「はっ、はい!望むところです!」

帰りながら、カガリは管理人が見えなくなるまでペコペコとお辞儀していた。アシヤは考え事をしているようだった。カガリが話を振っても生返事ばかりで、何も話そうとはしなかった。

「さっきの話をレポートに書くのは良くないよね……」

カガリはそんなことをぼんやりと考えた。ズキリと、手のひらの傷が痛んだ。

河童はまた、同じことを繰り返そうとしているのだろうか。奥方の身に何があったのだろうか。この村で、何が起ころうとしているのだろうか。

橙色に染まりゆく空と刺すような西陽が、様々な思惑が渦巻く小さな村を見下ろしていた。

***

澄田家に戻ると、奥方は快く出迎えてくれた。

しかし同時に、カガリの手の傷を見た途端、持っていたお盆を取り落としてしまった。その顔はひどく狼狽している。

「カガリさん!その傷……!あの川に行ったんですか!?」

「へ!え、えっと……」

「調査のために管理人から許可を得て立ち入りました。そこでこいつが遊んで川の中に混じってたガラスで切ったんですよ」

「そ、そうなんですね……」

嘘がつけないカガリの代わりにアシヤがうまく誤魔化すと、奥方はなんとか納得してくれたようだった。それでも不安の表情は消えない。

「やっぱり、あの川に何かあるのでしょうか……?」

「……小さな不幸が重なると、嫌でも悪い方向に考えてしまうものです」

「大丈夫、自分たちの身は自分で守れます。だから奥さんも気をしっかり持ちましょう、ね!」

カガリはうろたえる奥方の肩を優しく叩いた。奥方はまだ不安げな表情をしていたが、黙って頷いた。

数分後各々の部屋に戻り、カガリが荷物の整理をしていると、背中にコツンと何かが飛んできた。

「いて。……アシヤさん?」

アシヤは部屋に入らず、障子にもたれかかっている。

「それを今日は一晩中持っておけ。盛り塩も忘れるなよ」

背中に投げられたらしい物は、小さな紙包に入っており、周りに呪文が書かれていた。中身を見ることはできそうにない。

「なんですか、これ?」

「まあ、御守りのようなもんだ。進行を食い止めるには心許ないが、ないよりはマシだろう。お前、今日は奥さんの部屋で寝るんだろ。ちゃんと見張っとけよ」

「は、はい!ありがとうございます!がんばります!」

「……借りは返したからな。くれぐれも余計なことはするなよ」

そう言い残し、アシヤは去っていった。

アシヤは基本ずぼらな人間だが、貸し借りに関しては人より何倍も気を使っている。少しでも恩や恨みを帳消しにしたいかのように。お互いの関係にプラスマイナスが出ないように。そのことに気づいたのは最近のことである。

そしてそれが、アシヤなりの優しさなのではないかということも。

「……素直じゃないですねえ!」

カガリは御守りを握りしめ、にっと笑った。

***

夜。

虫の音以外は何も聞こえない。

そこに人が住んでいるとは思えないほどに、澄田家は静まり返っていた。

奥方は眠れないのか、……あるいは眠りたくないのか、薄明かりの中本を読んでいる。

カガリも布団に潜ってはいるものの、目は開いている。脳細胞がじりじりと興奮し、眠気を完全に抑え切っている。

「……すみません。あんな話をした後ですから、私と同じ部屋で寝ろというのも無理がありますよね」

奥方はカガリの様子を見て、そう言った。

「いえ!私は基本的に慣れない布団だと眠れない体質なので!全然気にしなくていいですよ!」

カガリは妙に元気だった。アシヤの御守りをぎゅっと握る。

「……マオさん、一つ聞いてもいいですか?」

「ええ、なんでしょう?」

「旦那さん……リュウノスケさんは、何も言わないんですか?このことに関して……」

「……」

奥方は目を伏せ、憂いの帯びた表情に変わった。薄明かりに照らされる顔は、より一層影を強くしていた。

「……そうですね。あの人には何も言っていないので。儀式で忙しい身ですし、あまり周りを見ている余裕もないのでしょう……」

「そんなの変ですよ!見た目もそうだし、一緒に住んでたらすぐわかるんじゃ……!」

「……一緒に、住んでたらそうなのかもしれませんね。」

「?」

「今の私たちは、一緒に暮らしていないのかもしれません。同じ部屋にいても話すことなく、お互いがいないかのように過ごしていたので」

「え……」

「少し前までは、そんなことはなかったはずなのですけどね。お互い遅めの結婚で、まだ三年目なのですよ。仲も良かったし、幸せでした」

「ど、どうして、そんな……」

「ええ、本当に。なぜこうなったのか、わからないのです。思い出そうとすると、頭がぼんやりして…いつから……いつ……」

どさりと音を立てて、奥方は倒れた。

「マオさん!!」

慌てて起き上がり、抱き起こす。

奥方の顔は蒼白く、生気がゆっくりと失われていくのがわかった。

そしてその白い首元は……。

じわりじわりと、線状にどす黒い紫が濃くなっていく。

「来た……!」

***

障子や家具、部屋にあるものがガタガタと揺れる。

冷や汗がブワッと吹き出した。

「かはっ……!ぅぐ……」

奥方は呼吸ができないのか、口を開いて苦しんでいる。

それでいて目は固く閉じられ、完全に夢の世界に閉じ込められているようだった。

「マオさん、しっかり……!マオさん!」

カガリは奥方の体にしがみついた。

どこにも行かないように。

連れて行かれないように。

はっと、部屋の隅を見ると、盛り塩があった。なぜかそれは揺れることなく、静かにそこに佇んでいた。

「まだこっちには入ってきてないんだ……!」

カガリは握りしめていた御守りを奥方の口に入れ、自分が発せられる唯一の詞を必死で思い出した。

ゼミに入って初めて教えてもらった詞。

自分と誰かを守るための詞。

短くとも効果の高い詞。

そして叫んだ。

それは言葉ではなかったが、カガリの意志は強く響いた。

「出て行け!!」

一覧へ
タイトルとURLをコピーしました