第一部『河童』起

……。

あの子が泣いている。

たった一人の私の子。

小さな手。

柔らかい頬。

そのどれにも触れる事なく、あの子は……。

声が、遠ざかっていく。

待って。

連れて行かないで。

……。

…………。

***

今年の梅雨は長かった。太陽はその遅れを取り戻すかのように、ジリジリとした暑さが肌を刺す。自然が多くとも日差しは強く、虫でさえも熱中症になりかけている。

山の木々はうっそうと生い茂り、鮮やかな緑が網膜に焼き付く。

脳をかき乱すほどの蝉の輪唱の中、畦道(アゼミチ)に人影が二つ。

一つは背が高く、眠たげな目つきをしている。暑さに押されているのかその背中はやや丸くなり、扇子を持つ手は柳のようにゆらゆらとうなだれていた。

もう一つは小柄で、中高生と間違えそうなほどにあどけない。子犬のように男の周りを駆け回り、ふわふわとした髪をなびかせていた。

「あー緑!あー自然!夏ですねー!」

背の高い男、アシヤはハンカチを取り出し額の汗をぬぐう。

構わず小柄な少女……、に見える女性、カガリは溌溂(ハツラツ)と話し続ける。

「あ!川が見えますよ!大きいですねえ!レポートが終わったら泳ぎに行きましょーよ!」

カガリを見るアシヤの目は、周りの気温が下がらんばかりに冷ややかだ。

「うーん!一体どんな感じなんでしょうかねー!かっ……」

「わかったから耳元で叫ぶのをやめろ!蝉よかうるせーんだよ!!」

小鳥の群衆のような声をさえぎり、アシヤは叫んだ。カガリはいたって悪気はないのである。ぐったりしているアシヤを見かねて場を盛り上げようとした結果であった。

「あっ、すいません、聞こえてないのかと思って!」

「騒音公害甚だしいわ!着くまで大人しくしてろよ!」

「だってこの懐かしい感じ、すごくそわそわするんですよー!」

カガリはそう言って深く息を吸い込む。植物の瑞々しい葉の香りと夏の太陽に灼かれる土の匂いが混ざり合う。冷ややかな目の男は目を逸らし、遠くの山を見つめる。

「……まあな。ここの景色はしきたりによって百年以上変わってないらしい」

「しきたり?やっぱりこの辺も妖(アヤカシ)が多いんですかね」

まだ妖やその事情に詳しくないカガリはアシヤに問うた。

妖(アヤカシ)。

人ならざるもの。

肉体を持たず、魂のみで活動するもの。

その姿はある程度霊力を持つ者にしか見えず、聞こえず、触れられない。

しかし、確かにそこにいる。

それは人ならざるもの。

動物とも異なるもの。

人智を超える力を持ち、この世に生けるものに少なからず影響を与える。

国によっては袂(タモト)を分かち、争い合った歴史も残っている。だがここ日本では連綿と続く歴史の中、妖と人は共存していた。人は妖を畏れ、敬い、妖は人を守り、祟った。

干渉するもしないも人間次第。ここ日本では、高層マンションの隣人のように、どこか余所余所(ヨソヨソ)しさを持ちながら、妖との距離を保っているのだ。

「お前は感じないだろうが、ここら一帯、結構いろんな霊気が混ざっているんだ。混沌としたこの辺の地域を、この村の神主らがうまいこと治めているらしい。それを外部の人間が不用意に荒らしなんかしたら……、わかるよな?」

「はい……。新しい“呪い”が生まれて、それを鎮めなければならなくなる。ですよね?」

「そういうこと。文字通り、『触らぬ神に祟りなし』ってことだ。お前もあんまり騒いでいると怒られるぞ、カミサマに」

アシヤの言葉に、カガリはぎょっとして身を固くした。カガリには妖を見るほどの霊力はない。故に”呪い”というフレーズには人一倍過敏であった。

「す、すいません……!大人しくするから呪わないでください……!」

「ガキかよ……」

一行は田舎道を進む。一軒の家屋を目指して。まだ日は上っている途中だ。

***

二週間前。陸陽大学カスミゼミにて。

窓越しからでも、ジリジリと鳴くセミの音が聞こえる。冷房のひやりとした機械的な風がゼミ室を抜けていった。

ゼミ室の教授、カスミは向けていた目をパソコンから机の脇にいるアシヤに変え、ゆっくりと体ごと椅子を回した。

「いいんじゃないか?納涼もかねて」

「いや、なんで僕があいつと一緒に行かなきゃいけないんですか」

アシヤの顔は凶悪だった。もし何も知らない他人が通りすがったなら、カスミが狂犬に今にも喰われそうな光景として目に映っただろう。しかしカスミから見れば、狂犬たる彼は駄々をこねてふてくされる子供でしかなかった。

「二年は一人。三年と四年は二人ずつ。院生は君一人。ペアにするなら二年のカガリくんしかいないだろう」

アシヤはカスミの机に勢いよく両手を置いた。ばんっ、と大きな音が鳴り、机上のメモ帳やペンが揺れる。今にもカスミに掴みかかりそうな勢いだが、やはり当の本人は涼しげな顔をしている。

「理解はできるが納得できませんね。そもそもなんで今年はペアで課外授業なんですか?こんなの初めてでしょ」

「うん、我々もこれからはどんどん新しい試みをしていかないとね。スケジュールもいい感じに噛み合ってるから、さ。いいだろう?」

「……なんでよりによってあの愚直脳筋と……!絶対なんかあるに決まってる……!」

アシヤは下を向き、ぶつぶつと独り言を呟き始めた。その形相はさながら般若の様相だが、それでもカスミはどこ吹く風であった。

「まあ、拒否権はないはずだよ。アシヤくん。幻術学と妖怪生体学の出席、足りてないんだろ?」

「ぐ!」

いつのまにかカスミのパソコンの画面にはアシヤの成績表が映し出されていた。出席日数ギリギリ、他の授業もぽろぽろと音を立てて落ちてしまいそうな散々たる成績である。

「今回のレポートの出来次第では処置を考えないこともないかな。院生が留年なんてそれこそ話にならないからね〜。学部生の頃みたいにはいかないと思いたまえよ、アシヤイオリくん?」

カスミはにっこりとアシヤに微笑んだ。表情は初めから変わらない。しかし長年の付き合いであるアシヤから見れば、それは真っ黒な微笑みだ。

人の弱みを知り尽くし、合理的かつ己の思う通りに動くよう他人を操る。それを自然にやってのけるのが、カスミという人間だった。

「……行きます……」

他の人間には決して見せないであろう、完全なる敗北の表情。それが、アシヤがカガリと共に村に行く理由であった。

***

場面は現在に戻り。カガリたちは木造の大きな一軒家の前に立っていた。

瓦屋根の趣深い外装だが汚れは少なく、最近建てられたものだと窺える。アシヤは玄関前に足を踏み入れ、黙って呼び鈴を鳴らす。

「はい」

マイクでこもっているが、琴のような凛とした声が、インターホンのスピーカーから鳴った。

「ごめんください。カスミ教授のご紹介で伺いました」

「はい、お待ちしておりました」

その言葉と同時に扉が開く。

中から現れたのは、着物の美人。簪(カンザシ)で髪を纏め、紫を基調にした装いは、大人の女性特有の色香を感じさせる。顔には微かにしわが刻まれているが、少し儚げな空気をたたえた、歳を重ねた分だけの妖しい魅力も纏っている。

ただ一つ。夏も盛りというのに、首元は黒いタートルネックで覆われていた。二人は一瞬疑問に思ったが口にすることはなく、女性の挨拶に会釈をする。

「カスミ様からお話は伺っております。どうぞ中へ」

「失礼します!!」

カガリの元気な発声にアシヤは思わず顔をしかめた。

「……失礼します」

家の中は、現代的ながらも重厚感のある空気が漂っていた。建材には高級なものが使われているようで、床を踏みしめても軋む音すらしなかった。板張りのリビングに、手作りの味わいがある茶褐色のダイニングテーブルがちらりと見えた。

二人は玄関からすぐ前の客間に通された。こちらは畳張りの和室のようだ。慇懃(インギン)な空気がカガリの背筋を伸ばす。

奥方に促され、向かいの座椅子に隣同士で座った。

「陸陽大学の生徒さん、でしたよね?」

女性は最初に尋ねた。相手への話はカスミ教授が通しているとのことだったが、二人と女性はお互い初対面だ。

「はい。カスミゼミで妖怪学を研究しております。院生の芦屋(アシヤ)伊織(イオリ)と申します」「学部生二年の篝(カガリ)咲月(サツキ)です!」

すかさずカガリは口を挟む。落ち着いた声で話すアシヤとはあまりにも対照的だ。

「はい。私は澄田(スミダ)真緒(マオ)と申します。短い間ですが、どうぞごゆっくり」

「ありがとうございます!」

カガリの発声に合わせてアシヤがぺこりと頭を下げる。

「これから明日の御霊会について説明させていただきますので、こちらで少々お待ちください」

そういうと、女性は茶を汲みに部屋を出た。

女性の姿を見送ると、アシヤは正座していた脚を投げ出し、背もたれに寄りかかって一気に脱力した。先程の空気は嘘のようだ。無礼なその姿に、カガリはもちろん黙っていない。

「研究室じゃないんだからシャキッとしてくださいよ!さっきみたいに!」

「オンとオフの切り替えが大事なんだよ、愚直脳筋くん」

「脳筋じゃないですカガリです!いい加減名前覚えてくださいよおー」

アシヤはカガリの名を読んだことがない。覚える気もないのだろう。呼ぶときはほとんど『脳筋』『お前』『愚直脳筋』である。

ひどい言われようだが、カガリは訂正こそするもののそこまで気にしていないようだ。よってアシヤもそのままだ。

「しかし河童の御霊会(ゴリョウエ)とは。カスミさんらしいチョイスだな」

いつのまにか、アシヤは今回の課外授業に関するレジュメを持ち、ひらひらと風に泳がせていた。それを見て、カガリも資料を取り出す。

コピー用紙二、三枚分の文字の羅列。課題は至ってシンプルで、この村で行われる行事を実際に体験・調査し、レポートにまとめるというものだ。そしてこの村で催される行事というのが、『河童の御霊会』なるものであった。

「御霊会って、不慮の死を遂げた者の魂を鎮める儀式……ですよね。なぜに河童なんでしょう?」

「まあ、あまり見ない例ではあるがね。御霊会の目的は荒ぶる魂を鎮めることにある。その対象は人に限らず、魂を持つ者……妖や付喪神だってそうだ。呪い祟る者がいればこれを鎮める。それがこの村では……」

言いかけて、アシヤはサッと姿勢を正す。同時に、障子越しに女性の影が現れた。

「河童……なのですよ」

音もなく、奥方が部屋に入ってきた。

アシヤのその場しのぎの態度に呆れながらも、カガリは話を合わせる。

「確かにここには大きくて綺麗な川がありますもんね。河童がいるというのも納得です。でも、ここに来るまで河童には会いませんでしたが……」

「……はい。この村の河童はすでに絶滅しております。御霊会ではその滅びた河童たちの魂を鎮めるのですよ。儀式は神主である主人、澄田流ノ介が行います。そして本番は二日後の朝になります。よろしくお願いしますね」

奥方は今後の予定を簡単に説明していった。御霊会が行われる日以外は、基本的に自由行動のようだった。二人の研究資料と、時間が潰せるスポットも紹介してくれた。一通り説明が終わったところで、アシヤが口を開いた。

「わかりました。……ところで」

アシヤは目だけを動かして周囲を見回すと、話を切り出した。

「僕たちを御霊会の二日前にお呼びした理由はなんでしょうか?式以外にも何かあるのでしょうか?」

奥方は、一瞬口籠った。

「それは……。この村の人口が減ってきたこともあり、式を準備する人手が足りないのです。できれば、お力添えしていただきたく……」

「よし、力仕事といえば君の出番だな!」

「腕が鳴りますねえ!……でもその話は事前に教授がおっしゃってたじゃないですか?話聞いてなかったんですか?」

「無論聞いてたさ。……真緒さん。貴方は僕たちに何か言いたいことがあるんじゃないですか?」

「え……」

「カスミさん曰く、課外授業の許可をくださったのはご主人だとか。しかし式の準備の手伝いを推してきたのはご主人ではなく貴方だそうですね。それに、カスミさんは去年まで毎年ここの御霊会を見てきたそうですが、式の準備自体は前日の夕方から始めても十分間に合うものだとも。なかなか不自然だな、と思いましてね」

「……そうですか……」

アシヤは疑り深い。人の言動には必ず裏があるものだ、とかつて話していたことをカガリは思い出した。アシヤは口籠る奥方を見つめている。

「……二日も余日があるとなると、こいつが河原で遊び出しかねませんよ」

「え!?遊びませんよ!……レポートが終わるまでは!」

その言葉を聞いた途端、奥方の顔から一気に血の気が引く。ひゅうと息を呑む音がした。

「……河原に近づくのは、おやめください!」

アシヤは奥方の狼狽を見逃さない。

「……何かあるんですね?ご主人にも言えない何かが……」

奥方は一瞬ハッとした表情をしたが、すぐに不安げな表情に変わった。アシヤの目には、奥方の迷いがはっきりと映っていた。

“この人に話しても大丈夫だろうか…。”

しかし同時に、不安と焦りも感じられた。話したいけど話せない。頼りたくても頼れない。何か事情があるのだろうか。しばらくして、奥方は呟くように言葉を発した。

「……カスミさんからお聞きしました。アシヤさんは学生にして腕利きの祓師(ハライシ)でもあると……」

祓師。

祓(ハライ)という名の妖術を操る者。

妖と人との間を取り持つ者。

祓の本質は『詞(シ)』という言葉にある。『詞』は妖と意思疎通することのできる唯一の言語術だ。これを用いれば、妖と対等に交渉・交流することができる。

カスミは祓のプロフェッショナルであり、そのカスミに習っているアシヤもまた、相当な実力の持ち主だった。しかし、それを説明しようと声を発したのはアシヤではなく、カガリだった。

「そうなんです!アシヤさんはこれまで何件も妖にまつわる事件を解決してきたんですよ!祓のことならなんでも知ってて、カスミ先生も頼りにしてるほどなんですから!だから妖関係のことはアシヤさんに聞けばドーンと解決してくれますよ!あ、学生なのは四留してるからだと思います!」

刹那、アシヤの肘がカガリの肩にめり込む。

「ぐっ!」

カガリは滅多に出さない、アヒルを絞めたような声色で呻き、肩を押さえうずくまる。アシヤは天を仰ぎ、どこか諦めたような表情をしていた。

「……四留じゃない。三留だ。まあ……話だけなら聞いてもいいですよ。そんなに思い詰めた顔をしていては、何もなくても悪い気が寄ってきてしまう」

奥方は押し黙り、やがて振り絞るように声を出した。

***

「――最近。梅雨に入る前でしょうか。

子供達の間で妙な噂が立っておりまして……。

『河原で遊ぶと子供が一人増える』

二人で行くと三人。三人で行くと四人。

気づかぬうちに見知らぬ子が一人加わった状態で遊んでいるのだそうです。遊んでいる間はそのことに気づかず、皆その子がいるのが当たり前のように過ごしているのだそうです。しかし帰り際に数えると、元の人数に戻っている。そして、遊んでいたはずのもう一人の顔や名前は誰も思い出せない……。

その話を聞いた主人は、『河童の仕業だ。害はない様だが、用心に越したことはない。今年の御霊会は念入りにした方が良さそうだな』と話していました。

”御霊会の日まで関係者以外は河原には近づかないように”というお触れも出しました。私もその時は特に何も考えず、ちょっとした妖の悪戯程度に考えていたのですが……。

その夜から、夢を見るようになりました。

黒い影に、首を絞められる夢。

それがなんなのかはわかりません。暗闇の中から腕のようなものが伸び、私の首を握り込むのです。もがき、苦しみ、やっとのことで目覚めると、夜明け前の暗い空が見えます。午前四時頃でしょうか。全身は汗だくになっていました。

初めは妙な噂を聞いたせいだと、あまり気にしていませんでした。しかし、その夢は毎晩続くのです。そしてその影は夜ごと強く、大きく……。

夢であるはずなのに、目覚めるまで息をしていないようでした。気のせいだと思いたかった。変な噂を聞いたから、無意識にあらぬ妄想をして夢に出てきているんだ。そう思いたかった。しかし。貴方がたがこの村に来る日程調整をしていた頃には……」

奥方はするりとハイネックの襟元をずらし、首元を見せた。その光景に、二人は言葉を失う。

「!」

奥方の、白い陶器のような首筋。その白に浮かぶ、暗雲の如き鬱血痕。首元に、手のような跡がくっきりとついていた。ただでさえ不自然な光景。しかしそこにはさらに奇妙な特徴がある。

数が少ない。

細縄のような指の痕は、片側にそれぞれ三本ずつ首筋に染められていた。これが人間の仕業ならば、五本ずつ痕が付くはずだ。これがなにを意味するのか……。

ぐるぐると巡る彼らの思考を遮るように、奥方の重い口が開く。

「これは、貴方がたを一介の祓師と見てお願いがあります。主人にもどうか、内密にお願いします」

黙り込む二人を見つめる瞳は、暗く淀んでいる。

――私に巣食う『何か』の正体を教えてください……――

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